Ⅵ 蕨立・さら坊貝塚(坂月町蕨立及びさら坊所在)

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 都川の中流・太田部落から北上する支谷は、小倉部落をはさんで東西に二分されるが、西北に向う谷は古山支谷と呼ばれ、東北に向う谷を大道山支谷と呼ぶ。その大道山支谷の東側に展開する広大な台地の西端部に立地する(二―四四図)。標高三六メートル、水田面との比高は一六メートルをはかる。現在は、坂月ニュータウンとして造成され、すでに湮滅して、旧地形さえとどめていない。

2―44図 蕨立・さら坊貝塚の周辺地形図(左=さら坊貝塚,右=蕨立貝塚)

 この遺跡の中央部には、大道山支谷より台地部に向って小さな谷頭が入っており、それによって南北の字名を異にしている。従来は、その字名によって、北側を蕨立貝塚、南側を「さら坊貝塚」と呼び、あたかも二つの遺跡が南北に対峙しているかのごとく理解されてきた。しかも、従来の発掘調査は、もっぱら北側の蕨立貝塚のみに集中してきたきらいがある。
 例えば、昭和二十六年四月、武田宗久を中心に千葉市誌編纂委員会によって発掘調査されたのも蕨立貝塚であった(二―四五図)。そのときの報告(武田宗久「原始社会」 『千葉市誌』千葉市)によると、この蕨立貝塚において、「六カ所の小貝塚群を発見し、その中二カ所に於いて各二個の竪穴を発掘したが、この小貝塚群の中の五カ所は半円形に点々と所在し、発掘未了の他の三カ所の貝塚の中にも住居址が夫々あったという推定が可能とすれば、本貝塚群はやがて環状集落を構成せんとした過程にある様相を示している中期貝塚の珍らしい例であるというを得べく、何等かの事情で其の発達が抑制されたものという感じを深くした。(中略)猶本貝塚群の最南端にある孤立貝塚は、独立家屋の跡とすべきであろうか。斯く考える時其処に所在したであろう同時共存家屋数は合計六軒となる」という。

2―45図 蕨立貝塚出土の耳飾を着装した人骨

 すなわち、その遺跡の全域について、住居址の存否を確かめたわけではなく、ただ点在する小貝塚の下にのみ住居址が埋没しているという仮設前提のもとに、その分布範囲だけを一つの集落としてとらえているのである。
 なお、昭和四十年八月、この遺跡が坂月ニュータウンの造成工事のため、全面が削平されることになり、それに先だつ記録保存調査が、先の武田宗久によって行われた。そのときも、同じ観点により、蕨立貝塚の貝層部のみを対象とする発掘調査が行われ、ついに、その中央部や周辺部の確認調査は行われなかった。しかも、その西側に隣接する「さら坊貝塚」に対しては、全く未調査のまま、ブルドーザーによる全面破壊を許容してしまったのである。
 ところが、元来、さら坊貝塚にも、その舌状台地の北端部に、蕨立貝塚と同じような、直径三~五メートルの小貝塚が一〇カ所にわたって分布しており、ブルドーザーで削平されたあとのローム層の面には、それぞれに竪穴住居の落ち込みが露呈されていた。しかも、舌状台地の基部にあたり、蕨立貝塚と連結する地域には、二十数基の竪穴住居の落ち込みが発見され、そのうちの約三割は、地表面には貝層の露出はなかったのに、床面上に小規模な貝層が堆積しており、残りの七割には貝層が伴っていなかった。
 このさら坊貝塚の集落は、蕨立貝塚として把握されていた面積の約四~五倍の拡がりをもち、大型ブルドーザーで一挙に削平されてしまったので、これらの遺構分布を記録する余裕のなかったのが残念である。ただ、台地の北端部に、わずかに削り残された部分があり、表土を削いだら土器の口縁部が露出したと、工事現場の作業員がしらせてくれ、その部分を発掘調査するまで削平作業を中止することを承諾してくれた。
 そこで明治大学の学生が中心になって、この部分の発掘を行い、加曽利EⅠ式の住居址一基と、それに隣接した埋葬ピット一基を完掘した。なお、ピット中の人骨は、横臥屈葬で、頭部に二~三重に甕をかぶり、左腕にはイタボガキ製の貝輪がはめられていた。骨の遺存状態もかなり良好であったので、そのまま工業用パラフィンで固定し、基盤のローム層と共に切り取って搬出した。現在、もとの姿で整備され、加曽利貝塚博物館に展示されている(二―四六図)。

2―46図 さら坊貝塚出土の人骨