Ⅶ 月の木貝塚(仁戸名町月の木所在)

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 都川本谷の河口近くから、東南に向って分岐する仁戸名支谷の西側に位置し、その支谷に向って突出した舌状台地の先端に立地する。標高約二五メートル、水田面との比高は約一四メートルをはかる。現状は、南半部がすでに宅地化しており、北半部が畑として旧状をとどめているにすぎない(二―四七図)。

2―47図 月の木、へたの台貝塚周辺地形図

 貝層部は、東西一五〇メートル、南北二〇〇メートルの範囲において、北及び東に開口した馬蹄形を呈する。しかも南端がもっとも高く、中央凹地との比高は一・五メートル~三メートルをはかる。貝の厚さは、ピークで一・二~一・五メートルをはかり、中央部に向って次第に薄くなり、凹地では全く貝がなくなると同時に、なんらの遺物も認められないという。
 昭和二十六年一月、千葉市誌編纂のため、武田宗久によって、貝塚全体の地形測量と、貝層部東北端における、約一〇平方メートルの試掘が行われた。このとき、狭い範囲にもかかわらず、縄文中期・加曽利E式期の竪穴住居址四戸が確認されている。そのうち、完掘されたのは二戸だけであって、その他の竪穴住居址は重複しつつ、その一端を露呈したにすぎない。
 第一号住居址は、長径六・七メートル、短径四・七メートルの不整楕円形を呈し、床面には、中央よりやや北寄りに長方形の炉址があり、それを囲んで、二〇個以上の柱穴が穿たれていた。周溝は北側に一重、南側には三重にめぐり、多数の支柱穴が、溝中やその延長線上に点列する。なお、この竪穴の南西隅に、不整円形の小竪穴(直経約一・七メートル)が付属しており、その中に、大型の粗製土器が納蔵されていた。
 発見者は、この住居址について、これは「一個の炉によって、少なくとも三回にわたり次々と再建され」、「次第に南方に床面を拡張し」たことを示すもので、「この家屋の入口は常に南に面していたことが想像される」という(註1)。
 第二号住居址は、長径五・八メートル、短径四・七メートルの楕円形を呈し、中央よりやや北寄りに長方形の炉址をもつ。周溝は一条で、その中に多数の支柱穴が点列していた。この竪穴住居址が第三号住居址の床面を切っているので、両者の柱穴が複合している。その上、更に第四号住居址がこの第二号の床面を切断していたので、それ以上の構造は不明である。なお、第三号及び第四号は完掘できなかったという。
 土器は主に加曽利E式土器が出土し、この住居址もすべて加曾利E式期のものであることが確認されている。そのほか人工遺物としては、打製石斧・磨製石斧・磨石・石皿・凹み石などの生活用具、石鍬・猪牙製斧・土錘・骨鍬等の生産用具などのほかに、貝輪、中央にアワビをはめこんだ耳栓形貝飾(二―八四図参照)、タカラガイ製加工品などの珍らしい装身具も発見されている。
 また、貝層中からは、鳥骨、獣骨(シカ・イノシシ・イヌなど)、魚骨(タイ・エイ・フグ・サメなど)等々が検出されたが、特に注目すべきことは、クジラの脊椎骨が出土していることである(二―一五図参照)。貝類はほとんど内湾性浅海の砂泥にすむ貝によって占められ、約五〇種を認めたが、特にハマグリ・キサゴ・シオフキ・アサリなどが大多数を占めていた(註1)という。
 以上のように、月の木貝塚は、馬蹄形貝塚を伴う集落遺跡としてとらえられるが、当時発見された土器が加曽利E式に限られていたため、この集落全体の所属時期も中期に限定されていると考えられていたが、その後の踏査によって、この遺跡からは、堀之内式や加曽利B式などの後期の土器もわずかながら採集されている(註2)。