この遺跡は、標高二五メートル、水田面との比高約一四メートルをはかる。貝層部は、直径百メートルの範囲に、七~八カ所の小貝塚が点在し、それが環状に連なり、表面的にみると、いわゆる馬蹄形貝塚にみえる。しかし、ボーリングしてみると、意外に貝層は乏しく、竪穴住居址内に堆積した点在貝塚の貝が表面に散在しているにすぎない。
表面採集の土器によると、中期の阿玉台式、加曽利E式のほかに、後期の加曽利B式などが含まれている。まだ発掘調査の行われたことのない処女地であるが、昭和四十四年、この舌状台地の基部に分布するへたの台古墳群(第三節第一項「古墳時代の主な遺跡」参照)を発掘調査した際、貝塚から百メートルの地点まで試掘してみたが、縄文時代の遺構や文化層は発見できなかった。すなわち、この遺跡の範囲はせいぜい二百×二百メートルの狭少な台地先端部に限定される。この規模や形態からみると、その所属時期も、主に縄文中期を中心とすることが予測できる。
さて、このへたの台貝塚と月の木貝塚との関係であるが、その所属時期はほとんど並行するので、月の木からへたの台へ集落が移転したとは考えられない。小支谷をへだてているとはいえ、両貝塚の距離は、わずかに二、三百メートルしか離れていない。しかも、月の木は大規模な馬蹄形貝塚を伴い、へたの台は小規模な点在貝塚しか伴わない。両者の存続期間にも集落規模にも、それほどの差異は認められないとしたら、それは果たしてなにに起因するものであろうか、きわめて重要な課題である。
【脚註】
- 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』昭和二八年
- 千葉市加曽利貝塚博物館の現地踏査記録による。