Ⅸ 長谷部貝塚(平山町主理台、袖が浦カントリー内所在)

108 ~ 109 / 452ページ
 都川から南に向って分岐した仁戸名支谷の中流地点で、更に東南に向って分かれた平山支谷の最奥部南側に当たり、三方を小支谷で囲まれた舌状台地の先端に立地している。標高四四メートル、水田面との比高は約二〇メートルをはかる。
 貝層部は、長径二百メートル、短径一五〇メートルの東に開口した馬蹄形を呈し、中央の凹地と貝層部との比高は約二メートルほどある。現在、貝層部の一部はゴルフ場内に保存されているが、バンカーの設置などにより、かなり旧地形が失なわれている。
 この遺跡の存在は、東京都大森貝塚(註1)に次いで、明治十二年、伊藤岩三郎らによって発見され、明治十二年十二月、加藤厳夫によって発掘され、学界に発表されたという。その後、昭和二十二年二月には、酒詰仲男・伊藤和夫によって、昭和二十四年七月には、東京大学人類学教室によって、それぞれ発掘されている。また、昭和三十四年十二月、ゴルフ場開設のため、早稲田大学考古学研究室によって、ほとんど全掘に近い大発掘が行われている。これら戦後の調査成果については、まだ正式な報告はなされていない。
 ただ、伊藤和夫によると、昭和二十二年の発掘において、阿玉台式期と加曽利E式期の竪穴住居址が発見されている。特に、阿玉台式の住居址は、「楕円形で太い周溝があり、太い柱穴があり大きな炉址のある深い竪穴であった」という。一般に、周溝や柱穴を伴わない住居址の多いこの地方の阿玉台式住居址としては、きわめて珍らしい例である。
 そのほか、出土遺物も多種多彩で、まず土器は中期の阿玉台式、加曽利E式、後期の堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ・Ⅱ式などの各時期にわたっている。生産用具としては石鏃と土錘、生活用具では打製石斧、石皿、たたき石、装身具では石製の耳飾り、そして祭祀遺物として土偶及び石棒が挙げられている。貝層中には、魚骨、海獣骨、鳥骨及び獣骨などが検出され、貝塚を構成する貝類は、純鹹または主鹹であったという(註2)。
 ところで昭和三十四年の大発掘においては、「伸展、屈葬、被甕葬、男女合体葬など各種のめずらしい埋葬様式を持つ三〇数体の石器時代人骨を出土した(註3)」。このときにも数個の竪穴住居址が発見され、土器も「縄文文化中期より後期の時代を主体とし、前期の諸磯式及び晩期の安行Ⅲ式をも含む(註4)」という。なお、この遺跡は、昭和三十五年六月三日、県の史跡に指定されている。
 
【脚註】
  1. この遺跡は、明治一〇年、東京大学の講師として招聘されたアメリカの動物学者エドワード・S・モースによってはじめて発掘され、わが国における考古学発祥の地として、歴史的に記念すべき遺跡である。国指定史跡(東京都品川区大井鹿島谷町二九五五から大田区大森町の一部にわたる縄文後期の貝塚集落)
  2. 伊藤和夫『千葉県石器時代遺跡地名表』 昭和三四年
  3. 『千葉県文化財総覧』 千葉県教育委員会、昭和四四年
  4. 『千葉市の文化財』 千葉市教育委員会、昭和三六年