貝層部は、直径約一八〇メートルの範囲内に、三カ所の大型堆積群と、七カ所の点在堆積とによって馬蹄形を呈する。中央部のくぼみは、貝層部より約一メートルの比高をもつ。この開口部は、仁戸名支谷にもっとも近い東側にあったものと思われる(二―四八図)。
2―48図 菱名貝塚の周辺地形図
昭和四十三年八月、千葉市加曽利貝塚博物館は、この遺跡の地形測量とともに、貝層部内側に、A・B・C・D・E・Fの六つの地点を設けて小発掘を試みた。このうちのいくつかのトレンチ内における所見を述べると、まず、南側の大型堆積群のほぼ中央に設けられたBトレンチ(二×四メートルと二×一・五メートルのL字型に設定)には、約一メートルの厚さに貝層が堆積し、この下から加曽利EⅠ式の竪穴住居址が出土した。住居址の上の貝層中からは、加曽利EⅡ式の伸展葬人骨一体とニホンイヌの埋葬骨一体が発見され、人骨の頭部左側から副葬品と思われる加曽利EⅡ式の完形土器が横倒しの状態で出土した。貝層は、地表面及び住居址内には乱脈な混土貝層が、その中間では純貝層が平坦に堆積していた。
Cトレンチは、この南側大型堆積群の東端に、二×六メートルと二×四メートルの規模で、L字型に設けられた。厚さ約七〇センチメートル~一メートルの貝層下より加曽利EⅠ式の竪穴住居址一戸、加曽利EⅠ~Ⅱ式の住居址一戸計二戸が発見された。このうち、加曽利EⅠ式の住居中央部には炉があり、そのすぐそばには、炉からはずしてそのまま床面においたような状態で、内部に白色の灰が充満した加曽利EⅠ式土器(口辺部のみ)が出土した。なお、本トレンチにおける貝層の堆積は、住居内においてのみ見られた。
Dトレンチは、東側にある大型堆積群の中央近くに、二×六メートルと二×四メートルの規模で、やはりL字型に設定した。ここでは厚さ約一メートルの貝層下から、加曽利EⅠ式の竪穴住居址が二戸発見され、そのうちの一戸には、床面を掘り凹めた炉址が二カ所に確認された。住居址のプランは、いずれも不明である。
西側の大型堆積群の中央部には二×四メートルの規模でFトレンチを設定した。このトレンチ内における貝層は、層序の判然としない混土貝層からなり、厚さは約五〇センチメートルでそれほど厚くはないが貝層下から竪穴住居址二戸とプラン不明の土拡一基が重複して発見された。これらの時期は、その時期判定資料が少なく判然としないが、この附近から出土した土器片は、阿玉台式が全体のうちの三〇パーセント、加曽利EⅠ式が三〇パーセント、加曽利EⅡ~Ⅲ式が二〇パーセントで、残り二〇パーセントは判定不能のものであった。
以上のとおり、この調査によって、合計八戸の竪穴住居址が発見され、そのほとんどが加曽利EⅠ~EⅡ式に属するものであった。しかも、貝層部の内側で、比較的貝層が薄く、しかも落花生の成長の悪いソイルドマークを選んで発掘したところ、A地点を除いたすべての地点から住居址が発見された。特に、もっとも中央部に近い地点に設定されたCトレンチとFトレンチにおいては、住居址内においてのみ貝の堆積がみられ、いわゆる点在貝塚の様相を呈していた。
しかし、B・D及びE地点においては、比較的貝層も厚く、住居址内のみならず、貝層の堆積が広範囲に拡がっており、大量の貝が集中的に捨てられた純貝層の堆積もあって、いわば馬蹄形貝塚の様相を呈していた。
なお、この調査で発見された土器は、貝層部の上層においては、堀之内式の土器が多少出土したが、その大多数は中期の加曽利EⅠ式及びEⅡ式で、阿玉台式土器はあまり発見されなかった。貝層中から、イノシシ・ニホンジカの下顎骨が数点検出されたが、石鏃の出土例はわずかに二~三点であった。その他石皿・くぼみ石・軽石製浮子などが出土しているがきわめて少量である。
そして貝層部を構成する貝類は、ハマグリ・シオフキ・アサリ・オキアサリ・キサゴ・ツメタガイ・アカニシ・バイなどが主体をなし一部からハイガイも採集されている。
なお、この遺跡の東方約五百メートル、仁戸名本谷をへだてた対岸には、平山町・台畑貝塚がある。一部から加曽利E式土器も出土しているが、北側斜面の盗掘溝などから露出している土器をみると、むしろ後期の堀之内式及び加曽利B式が主体を占めている。貝の堆積状態も、表面的にみると、直径約百メートルの馬蹄形を呈するが、ボーリングの結果、貝層は意外に薄く、しかも点在していることがわかった。傾斜面などに局部的に比較的厚い堆積もあるが、全体として点在貝塚を伴う集落とみるべきで、後期のものとしては、むしろめずらしい存在というべきであろう。
(後藤和民)