貝層部は、長径約一四〇メートル、短径約一一〇メートル、北に開口部をもつ馬蹄形を呈しているが、その貝層堆積は四つの大型ブロックに分けることができる。なお、この北西端の外側にも小規模な堆積群が独立しており、その上に盛土して家屋が建っている。現状は畑だが、周辺の宅地化の中で孤立しており、いつまで現状を保てるか時間の問題である。
昭和三十五年二月、印旛・手賀両沼周辺地域の埋蔵文化財調査の際、この貝塚の東側に独立した堆積群の中央に試掘溝が設けられ、小発掘が行われた。その結果、遺構として、直径約八五センチメートル、深さ約五〇センチメートルの袋状ピットが発見された。その中にキサゴが充満しており、クロダイの顎骨や脊椎骨とともに、イノシシやニホンジカの大型獣類の骨片が検出された。調査者は、これは「単に食糧の保存・貯蔵のための施設ではないのではないか(註1)」という。しかし、それはキサゴを保存したのではなく、魚肉や獣類の肉を貯蔵するために、キサゴが熱伝導を防止する防熱材の役目を果たしていたと考えられる。
このときの出土品としては、打製石斧一、たたき石一、貝輪一、土錘一個、そして土器は堀之内式を主体とし、加曽利B式が多少含まれていた。自然遺物では、サメ類・マイワシ・マアジ・スズキ・クロダイ・マダイ・コチ・ヒガンフグなどの魚骨、ガン・カモ科の一種とキジなどの鳥骨、それにイノシシ・ニホンジカ及びニホンザルなどの獣骨が検出されている。なお貝類は約二四種が認められたが、ハマグリがもっとも多く、それにオキアサリ・キサゴが主体をなし、そのほかオキシジミ・サルボウ・ツメタガイが目だつのみであったという。
なお、その後昭和四十六年三月に、宍倉昭一郎を中心に、千葉市立高等学校社会研究クラブによる測量調査があり、きわめて正確な実測によって、この貝塚の形態が初めて定着された。このときの表面採集による土器の類別によっても、堀之内式が約三三パーセント加曽利B式が約四九パーセントを占め、この遺跡が主に後期に属することが確認された。
2―49図 長作築地貝塚の周辺地形図(千葉市立高等学校社会研究クラブ1971)
【脚註】
- 金子浩昌「築地貝塚」『印旛・手賀』早稲田大学考古学研究室報告第八冊、昭和三六年