2―50図 犢橋貝塚の周辺地形図
本遺跡は東京から近い距離にあるため、明治年間より、「遠足会」と称する遺物採集や発掘などがしばしば行われた(註1)。戦後になってからは、昭和二十六年五月明治大学、同年八月東京学芸大学、昭和三十一年六月明治大学、昭和三十九年五月明治大学及び千葉大学が、測量や発掘調査を行い、次第にその様相が明らかとなった。
この遺跡は、貝塚の分布範囲が東西二百メートル、南北一五〇メートルをはかる集落遺跡で、貝層は東西に長い馬蹄形を呈し、東と西に開口している。貝塚を構成する貝類は、キサゴ・ハマグリ・アサリ・カガミガイ・シオフキなどを主体とする主鹹貝類によって占められている。
遺物も豊富で、土器は堀之内式・加曽利B式・安行Ⅰ・Ⅱ・Ⅲa式などの縄文後期前半から晩期初頭にかけてのものが発見されており、かなり長期にわたって集落が営なまれたことを物語っている。
昭和三十一年度に明治大学が行った発掘調査によると、貝塚北側末端部における層序は、ほぼ次のとおりであった。
まず表土(二〇~五〇センチメートル)はかなりの攪乱をうけた形跡があり、後期から晩期までの各型式の土器片や貝殻の砕片が混合していた。表土下に第一・第二・第三の各純貝層が整然と重っており、おのおの一〇~三〇センチメートル程度の厚さであり、遺物の包含は少ない(註2)。第三貝層の下に約一メートルの厚さをもつ混貝土層、その下にキサゴのこまかく砕かれた貝層がはいりこみ、その下に暗褐色の混貝土層(約二〇センチメートル)、そしてローム層に至る。混貝土層は、後期終末の安行Ⅱ式土器を包含し、キサゴの破砕貝層以下は堀之内式土器を包含している。しかし混貝土層中かなり深い部分まで大洞B式土器類似の砕片が含まれており、晩期と後期との境界を決める重要な問題を提起した。
しかし、これらの諸調査において、常に、貝層部やその内側を発掘してきたにもかかわらず、これまでに一度も後・晩期の住居址には遭遇せず、これを集落としてとらえる実証はつかめなかった。
ところが昭和四十三年、遺跡の周辺を造成する際、貝層部から三〇~五〇メートルをへだてた周辺部を削平したところ、その断面に、堀之内式及び加曽利B式の竪穴住居址と貯蔵穴が数基露呈された。しかも貯蔵穴中から、称名寺及び堀之内Ⅰ式の完形土器も採集された。これによっても、当時の集落の基調となるべき住居址群は、貝層部の内側よりも、むしろ外側にこそ広範囲に展開していた可能性が確認されたわけである。
【脚註】
- 「下総犢橋遠足会の記」『人類学雑誌』四〇巻、大正一四年
- 本項「五、縄文晩期の主な遺跡」参照