2―51図 草刈場貝塚の周辺地形図
貝層部は東西一八〇メートル、南北二百メートルの範囲に、馬蹄形に展開し、ボーリングの結果、開口部は東、西及び南西の三カ所に認められた。中央凹地と貝層部との比高は約一・五メートルである。現在、この遺跡の中央には、工場用水道路が貫通し、南西部は削平されて住宅地となっている。
昭和二年、酒詰仲男によって調査され、そのとき、「中凹部には貝層は勿論土器すらなかった。住居址も人骨も悉くこの土手の内外及び頂上部から発見された。こうした貝塚上には或時代に五~六及至七~八戸の家が略環状に並列していたものではなかろうか」と述べている(註1)。
出土遺物については、土器は加曽利E式・堀之内式・加曽利B式及び晩期の安行ⅢC式が認められている。石器は打製石斧や磨製石斧などが出土し、そのほかに、土偶なども発見されている。なおこの遺跡からは、幼児骨を埋納した甕棺や埋葬人骨も発見され、その所属時期は中期から晩期にわたっている。
また、この遺跡においては、貝層中に踏み固められた面があり、そこに環状に灰を敷いた「環状灰床」が発見されている。これには、一部に壁も認められているが、平地式住居に属するものと考えられている(註2)。これは堀之内式期の遺構であるが、類似例は、市川市の曽谷貝塚や堀之内貝塚ばかりでなく、加曽利貝塚においても多数発見されている(註3)。多部田貝塚でも、直径二メートルの範囲に焼けたキサゴの破砕片を敷きつめてあり、これも加曽利B式期の平地式住居であろうというのである(註2)。むしろ、これは堆積した貝層上で、焚火がおこなわれたものと思われる。
なお、この遺跡の南方、約五〇メートルの位置に、草刈場南貝塚がある。直径約七~八〇メートルの範囲に、点々と小貝塚が散在している。時期も草刈場貝塚とほぼ同時期に属するが、両者が別々の独立した集落とは考えられない。これまでに、いくつも同じ例をみてきたように、一方では大型の馬蹄形貝塚を有し、他方では小型の点在貝塚を伴なっている。それは、むしろ、同一集落内における、貝塚そのものの形成のちがいであり、集落内における貝の存在意義の相違としてとらえるべきであろう。
【脚註】
- 酒詰仲男「地形上よりみたる貝塚」『考古学雑誌』37巻 昭和二六年
- 伊藤和夫『千葉県石器時代遺跡地名表』 昭和三四年
- 大宮守誠「千葉県加曽利古山貝塚に就いて」『考古学雑誌』27巻 昭和一二年
なお、昭和三九年の南貝塚緊急調査においても、数カ所で確認されている。