Ⅳ 加曽利貝塚(桜木町京願台所在)

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 貝塚としての立地は、中期のところで述べたが、この遺跡の全域については、まだその範囲が確認されていない。台地の東側にある岬状突出部の南側に、古山支谷から西に向って分岐する小支谷があり、それが大きく迂回しながら北上して、内陸平坦部から切り取った部分が広大な舌状台地を形成している。遺跡は、おそらくこの全域にわたって展開しているものと思われる。
 昭和四十五~四十七年にかけての、南貝塚東側の傾斜面における遺跡限界確認調査の結果、加曽利貝塚は、早期の茅山式期から晩期の安行Ⅲb式期にいたる、縄文時代のほぼ全時期にわたって存続することがわかった。しかし、混乱を避けるため、各時期ごとの様相を、別々に述べているのである。したがってここでは、後期の様相を明らかにした調査と、その成果のみを抽出してみたい。
 大正十三年の東京大学人類学教室よる発掘以来、B地点が設定された南貝塚はほぼ縄文後期に属し、E地点の置かれた北貝塚がほぼ縄文中期に属するものと考えられてきた。いまでも、それが常識になっているが(註2)、いまや、この認識を大きく改める必要がある。
 まず昭和十一年の大山史前学研究所による発掘調査を挙げなければならない。このとき、南貝塚の大きく東・西に二分される大型堆積群の、西側の貝層部の末端、馬蹄形の輪郭の外から、二戸の縄文後期に属する竪穴住居址が発見された。しかも、そのうち南西端から発見された住居址からは、二体の伸展する人骨が発見され、そのうち一体は床面に密着していた。これに対して、大山柏・大給尹は、住居址内で死亡した人間をそのまま埋葬した「廃屋屍体放置」という埋葬形態の存在を想定している。
 なお、南・北両貝塚が「連接せる二個の環状をなす点は、本貝塚の一特色である」とし、まずおのおのが環状を呈する原因については、住居址の発見位置から、「一概に最初から環状内部に住居して、外囲に貝を投積したとは申し得ない」という。そして、「二個の環状が果して略同時頃に出来たものか、或は相前後して出来たものか」と、問題提起をしているのである(註1)。
 この問題は、昭和三十七年の北貝塚において、加曽利B式住居址が発見され、その床面に五体の人骨が折り重なって発見された例や、逆に、昭和三十九年の大発掘において、南貝塚から中期の住居址が発見されている例からも、きわめて重要な課題となっているのである。
 そしてこの南貝塚の緊急発掘によって、従来、発見例が乏しいといわれてきた後期の住居址が、六本のトレンチ内だけで二一基も発見されている。特に、そのうち堀之内式期のもの一四基で約六七パーセントを占め、その他加曽利B式六戸(約二九パーセント)、安行Ⅰ式一戸(約五パーセント)であった。しかも、これら後期の住居址は、さきの昭和十一年の例と同じく、貝層部のむしろ外側に集中していることが判明している。
 なお、この六本のトレンチ内から、三一体の人骨が発見され、そのうち後期に属するもの二二体が確認され、その他九体は時期不明であった。この比率をみても、堀之内式期に属するもの一二体で、約五五パーセントを占め、加曽利B式期八体(約三六パーセント)、曽谷・安行式期二体(約九パーセント)であった。しかもこれら三一体の人骨の約八〇パーセントが東側の貝層部から発見されており、特に東南部に密集する傾向があった。おそらく、その周辺に当時の墓地的な埋葬ゾーンがあったものと思われる。
 更に昭和四十五~四十七年にかけての南貝塚の東傾斜面における遺跡限界確認調査の際、貝層部の末端から約二百メートルをへだてた傾斜面中腹部において、加曽利BⅠ式期の住居址一戸と貯蔵穴一口、それに安行Ⅰ式期の竪穴住居址が一戸発見されている。特に、加曽利BⅠ式期の竪穴住居址には、中心の炉辺に双口異形土器(第二章扉写真参照)が伴っており、柱穴が二重にめぐらされ、北側に向って対をなした柱穴が並び、あたかも入口の仕切を思わせる配置であった。
 そのほか、昭和四十四年の代官屋敷移築に伴う予備調査の際、東傾斜面の一角において、傾斜した台地基盤をテラス状にならし、その先端に等間隔の柱穴が並んだ特殊な遺構が発見され、しかも、石棒や硬玉製の玉などが出土した。そのテラス状の床面から炉址も発見され、その中から加曽利B式の土器が発見されている。これが普通の住居形態をなさず、特殊遺物のみが出土しているので、なんらかの特殊遺構であろうことが予測された。しかし、その性格が不明のまま、旧代官屋敷の移築のため、その部分は削平されてしまった。
 ところが、昭和四十八年の末になって、消防署の要請により、防火用水槽の設置のため、この代官屋敷の北側傾斜面に試掘溝を入れたところ、いまだかつて見聞したことのない巨大な竪穴遺構が発見された。これは傾斜する台地基盤の高い方を約〇・五メートルほど掘り込み、東の古山支谷に向って平坦な床面がつくられ、全体の形が長径約一九メートル、短径約一六メートルの小判型を呈する。床面上には、周壁に沿った周溝がめぐらされ、その中側に、等間隔の壁柱が並んでいる。そして、それに平行して、周壁から約一・五~二メートルの距離を保ちながら、内側に柱穴が等間隔に並列して、やはり小判型に床面を区画している。更にその内側には、八本の柱穴が規則正しく配置され、その柱穴を結ぶと、約三×四メートルの長方形を呈する。
 このような特異な柱穴群によって、周壁に沿って帯状に区画された部分からは、焚火址が数カ所にわたって発見され、石棒が一対と台付異形土器が一対になって出土している(二―六九図右上参照)。そのほか砥石が七点、浮子二点、石皿二点、石鏃一点などが西側に集中して発見されている。そして、内側の長方形の区画の柱穴の底からは、硬玉製の玉が一個出土した。しかし、そのほかの一般的な土器、特に生活用の土器片はほとんど発見されなかった。ただ台付異型土器などからみると、この遺構が加曽利BⅠ~BⅢ式に属することは、ほぼ確実である。
 この遺構が、日常生活の本拠としての住居形態ではないことは、すでに明らかであるが、代官屋敷の敷地内から発見された特殊遺構と競合して、この台地の末端傾斜面に、当時の集落全体における行事や祭祀など、なんらかの統合的な機能が行われていたことが予測できる。すなわち、従来は馬蹄形貝塚の中央広場に、なんらかの社会規制的な機能を求めたが(註3)、そこにはなんらの確証もなく、むしろ、貝層部から二~三百メートルも離れたところに、このような特殊遺構が発見されているのである。
 
【脚註】
  1. 大山柏「千葉県千葉郡都村加曽利貝塚調査報告」『史前学雑誌』九巻一号 昭和一二年
  2. 杉原荘介『加曽利貝塚』中央公論美術出版、昭和四一年
  3. 和島誠一「南堀貝塚と原始集落」『横浜市史』一巻、昭和三三年