貝塚の部分は直径約一五〇メートルの環状を呈し、内陸部では数少ない大型貝塚の一つである。
発掘調査は、昭和二十九年三月、東京教育大学と千葉県立第一高校とが行っているが、その正式な報告は公表されていない。ただ、その調査に参加した伊藤和夫によれば、この遺跡から「中央に加曽利B式の口縁部を欠する土器を埋めて炉とし、炉を中心として半径二メートル位の範囲内の床面と思われる表面に、主として焼いたキサゴの破砕片を敷きつめた加曽利B期の平地住居と推定される住居址を発見」したという(註1)。そのほか、加曽利EⅠ式、堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ式、安行Ⅱ式の土器が発見され、石器類、骨角器類も出土したという。
なお、昭和四十六年、この遺跡の東側に隣接する広大な台地平坦部に「平和公園」(市営霊園)が造成されることになり、加曽利貝塚博物館では、多部田貝塚の集落範囲を確認するため、造成区域内の予備調査を行った。しかし、貝層部から約三百メートルをへだてたその区域内からは、地表面に堀之内・加曽利B・安行Ⅰ式などの土器片が散布し、また表土下に不明確な文化層をわずかに認めたほかは、住居址や貯蔵穴、あるいは焚火址などの生活や居留の痕跡はなんら発見することはできなかった。
【脚註】
- 伊藤和夫「千葉県の石器時代文化」『千葉県石器時代遺跡地名表』昭和三四年