Ⅵ 矢作貝塚(矢作町貝殻所在)

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 東京湾からわずかに二キロメートル、都川の南岸の舌状台地上に位置し、標高二七メートル、水田面との比高は一三メートルをはかる。現在は、水道の給水塔によって、その大半は削平され、住宅敷地によって、その旧地形はほとんど失われている。
 貝層部は、直径二百メートル近い範囲に展開し、その形状は馬蹄形もしくは弧状を呈したという。
 昭和十三年、武田宗久によって発掘調査が行われ、二戸の竪穴住居址と、六体の埋葬人骨が発見され、数多くの遺物が出土している。まず土器は、早期の茅山式、前期の諸磯式、中期の加曽利E式、後期の堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ・Ⅱ式、晩期の安行Ⅲa式が発見されている。そのほか、打製石斧三、磨製石斧二、たたき石二、石皿二、軽石二、計一一点の石器、それに石製品として石棒が出土している。また鹿角製の釣針が五点と尖頭器一点が発見されていることは、特に注意される。なお、このとき、堀之内式の土器片で炉を囲んだ「半地下式家屋」が発見されており、また、一つの床上に七体の人骨が伸展したまま並列して合葬されていたという。そして、小児または胎児を埋納した甕棺が一箇発見されている。
 貝類としては、ハマグリが主体で、キサゴがそれに次ぎ、そのほかイソシジミ・アサリ・オオノガイ・シオフキ・サルボウ・カガミガイなどが認められたという。
 自然遺物としては、イノシシ・ニホンジカなどの獣骨、ガン・カモ科の鳥骨のほかに、サメ類・トビエイ・ボラ・スズキ・ヘダイ・クロダイ・マダイ・マフグ科の一種、コチなどの魚骨が検出されている(註1)。
 なお、その後、水道の給水塔建設に伴う緊急発掘調査が、武田宗久を中心とする千葉市文化会の手によって、昭和三十二年八月に行われている。このとき、堀之内式期の竪穴住居址一戸をはじめ、堀之内Ⅰ式、同Ⅱ式、加曽利BⅠ式及びBⅡ式の土器、それに打製石斧、貝輪、骨鏃、貝刃、鹿角製未製品などが出土している(二―五二図(1)、(2))。

2―52図(1) 矢作貝塚出土の土器(堀之内Ⅰ式)


2―52図(2)矢作貝塚出土の土器(堀之内Ⅱ式)

【脚註】
  1. 武田宗久「下総国矢作貝塚発掘調査報告」『考古学』九巻八号、昭和一三年