この遺跡は、印旛沼の水源流鹿島川支谷の最奥部にあたり、その西岸の谷を臨む洪積台地上の一角に位置する。標高約四〇メートル、水田面との比高は五~一〇メートルをはかる。現状は畑地である。
包含層は台上の平坦部一帯に、かなり広範囲に拡がっているが、貝層部は台地縁辺部から傾斜面にかけて残されている。かつては、より大規模な貝塚であったと伝えられるが、現在は直径八〇メートルの範囲に、四カ所の堆積群が馬蹄形に展開しており、その開口部は東と西の二カ所にみられる。
昭和三十一年一月、大場磐雄の指導のもとに、東金高等学校によって、貝層部のトレンチ調査が行われている。この発掘によって、竪穴住居址や埋葬人骨は発見されていないが、約六〇平方メートルの発掘区内としては、遺物の出土量が豊富である。まず、縄文土器は加曽利B式を主体として、わずかながら堀之内式、安行Ⅰ・Ⅱ式が伴出している。なお、その後の踏査では、そのほかに中期の加曽利EⅢ式と晩期の安行Ⅲa式・Ⅲb式などが表面採集されている。石器類では、石鏃、石皿、凹石、すり石、磨製石斧、打製石斧などが発見され、骨角器としては浮袋口二個のみであった。なお装身具としては、朱塗りの骨製腰飾り(?)、サルボウ・ベンケイガイ製の貝輪八個、朱塗りの臼形耳飾(耳栓)などがあり、特殊なものでは、土偶の破片、小型土器などの祭祀遺物も発見されている。
自然遺物としては、魚骨は少なく、クロダイがわずかに出土。鳥骨ではガン・カモ科の一種、そして、獣骨ではニホンジカがもっとも多く、イノシシはやや少ない。そのほかタヌキ・ノウサギ・ニッコウムササビ・ニホンザルなどが発見されている。なお、貝類では、ハマグリがもっとも多く、シオフキ・キサゴがこれに次ぎ、そのほかカガミガイ・マテガイ・ツメタガイ・アカニシが目だつ程度で、それにカワニナが伴っていた。
ところで、この貝塚は鹿島川の最奥部にありながら、発見される貝類が、カワニナを除けばほとんど鹹度の高いものばかりである。しかも所属時期が後期を主体としているが、この時期には、すでに印旛沼は淡水化していたはずである。これについて、「本貝塚にのこされた鹹水産貝類の棲息地を都川渓谷に求める。野呂山田貝塚人は、この都川本谷まで貝類などの採拾にむかい、持ちかえっては食膳に供したと考察したい」という(註1)。そして、集落が都川に面する方に立地しなかった理由としては、「ここは鹿島川谷奥の湧水池を控えている。生活の第一条件として真水の容易な獲得」こそ、「山田の貝塚を構成した人の立地を決定した条件となったのであろう」という(註2)。