この荒立貝塚においても、それを構成する貝は、ハマグリ・シオフキ・キサゴを主体とし、鹹度の高い貝類によって占められている。しかも、野呂山田貝塚と同じように、貝塚の規模は、それほど大きくないのに、周辺に濃密な遺物が広範囲に拡がっている。これは都川周辺の馬蹄形貝塚を伴う後期集落とは様相を異にしている。これらの、共通性からも、この荒立貝塚は、野呂山田貝塚とほとんど同じ性格をもち、同じく鹿島川の真水を求めて立地し、貝類は都川溪谷から運んだものと考えられる(註2)。ちなみに、都川の大草支谷まで約七百メートルしかない。
なお、集落が鹿島川の支谷最奥部に立地した理由としては、ただ単に真水が容易に得られることだけではなく、むしろ、内陸台地部の鳥獣類をもとめる狩猟のためにこそ最適の場所であったと思われる。なぜならば、鳥獣もまた水を求めて渓谷に集まるからである。
【脚註】
- 川戸彰「野呂山田貝塚」『印旛・手賀』 早稲田大学考古学研究室報告第八冊、昭三六年
- 2 金子浩昌「印旛・手賀沼地域の貝塚」『印旛手賀』右に同じ。