Ⅷ 築地台貝塚(平山町築地台所在)

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 加曽利町付近で、都川本谷から南東に向って分岐する仁戸名支谷を、更に約四キロメートルほどさかのぼった北側の台地上に位置する。標高は三七メートル前後、水田面との比高は約一七メートルをはかる。現状は畑地。貝塚部分の形状は、南に開口する馬蹄形を呈し、直径約一五〇メートルをはかる。
 発掘調査は、昭和二十四年と二十五年に、久保常晴を中心とする立正大学考古学会員らによって行われている。その報告によると、この貝塚は、キサゴを主体とし、ハマグリ・シオフキ・アサリ・ヒダリマキマイマイ・カキ・サルボウ・イボニシ・カガミガイなどの貝からなる。長径二五~三〇メートル、短径一〇~二〇メートルの規模をもつ四つの貝層部が馬蹄形に分布している。そのうちの一カ所、長径二五メートル、短径一〇メートル、厚さ一五センチメートル~一三〇センチメートルの貝層部を、その七割ほど発掘したという。
 この貝層下から、後期堀之内式期の竪穴住居址の床面が発見されている。その一戸の全体は露呈できなかったが、直径約五メートルの隅丸方形を呈するものと思われ、床面上には、主柱穴や副柱穴があり、灰・焼土の堆積した炉址らしきものも発見されたという。この竪穴住居址の附近からは、加曽利E式と堀之内式を主体とする土器が発見され、発掘区の北側では、堀之内式を主体とし、そのほかに加曽利B式及び安行式の土器片も認められた。
 そのほかに、特殊遺物としては、堀之内式の土偶(首部)一点と、中に幼児骨が納蔵された大型の甕棺土器一個が発見されたという。生活用具としては、復原可能な土器六点のほかに、磨製石斧、石皿破片、凹石、たたき石などがあり、生産用具としては、軽石製の浮子が出土している。
 なお、貝層の中からは、食糧になった鳥骨や魚骨のほかに、シカ・イノシシ・タヌキなどの獣骨が発見されている。
 この遺跡も、縄文時代中期後葉から後期前葉まで存続した、馬蹄形貝塚を伴う集落遺跡である。なお、この遺跡の周辺には、やはり仁戸名支谷の最奥部に面した台地上に、中期の馬蹄形貝塚を伴う集落・菱名貝塚がある。
 
【脚註】
  1. 久保常晴「千葉県千葉郡築地台貝塚」『日本考古学年報』二・三