2―53図 六通貝塚の周辺地形図
貝層部は、直径約百メートルの馬蹄形を呈し、開口部が南北に二カ所あり、二つの大きな弧状堆積群が南北に対峙する。貝層の拡がりは、東側の堆積群の方が大きい。そして、北の開口部は仁戸名支谷に通ずる谷頭に向い、南の開口部は小金沢谷の谷頭に向っている。
この遺跡の発掘調査は、昭和二十四年七月に、東京大学人類学教室によって行われたほかは、知られていない。このとき、石鏃や打製石斧などの生産用具、石皿、たたき石などの生活用具、石棒、石剣、独銛石(両刀石斧)などの特殊遺物が出土し、人骨と甕棺が発見されている。そのほか、鳥骨、獣骨及び魚骨が検出されたというが、これらについては、いまだ詳細な報告はない(註1)。
また、昭和二十九年春には、馬蹄形貝塚の中央部を貫通する道路が新設され、その工事中に、新たに人骨が発見され、石斧などの遺物も出土したというが、これもくわしいことは不明である(註1)。
なお、この遺跡から出土する土器の所属時期としては、後期の堀之内式、加曽利B式、曽谷式、安行Ⅰ式、安行Ⅱ式及び晩期の安行Ⅲa式が挙げられている(註1)。
最近の調査では、昭和四十三年、千葉県考古学会が行った、泉南部丘陵地帯の遺跡分布調査がある(註2)。このとき、貝塚中央部の石川浪雄宅の裏庭に、戦時中の防空壕があり、その断面から、土器ばかりが堆積した層が発見された。これは、いわゆる「土器塚」ではなく、おそらく江戸時代に、その農家の敷地として貝塚の一部が削平されたとき、出土した土器片だけを寄せ集めたものと思われる。
この土器群の中には、小型の完形土器や復原可能な土器が十数点含まれていたが、石器類は全く含まれていなかった。その所属時期を調べてみると、後期の堀之内Ⅰ・Ⅱ式、加曽利BⅠ・Ⅱ・Ⅲ式、曽谷式、安行Ⅰ・Ⅱ式、そして晩期の安行Ⅲa式であった。これらの時期の土器が混然と一括されていたが、その中でも、堀之内式と加曽利B式のものが圧倒的に多かった(二―五四図)。
2―54図 六通貝塚出土の土器
また、この分布調査で、遺跡の南端部、バス通りの南側畑地から、チャート製の石鏃と皮はぎ(スクレイパー)、滑石製装身具及び打製石斧などを表面探集した。地元の鈴木一成によると、この部分からは石鏃などの石器が特に数多く発見されるという。なお、この貝層部を構成している貝類は、ハマグリ・キサゴ・シオフキ・カガミガイ・アカニシを主体とする。
以上のように、この遺跡は、馬蹄形貝塚を伴い縄文後期を主体とする集落であるが、場所によっては、縄文晩期の遺物包含層が所在したことは明かで、かなり長期にわたって存続したものと思われる。たとえば、この遺跡の西側の谷津は、「泉谷津」と呼ばれ、江戸初期から水論の対象となり、古市場村、椎名村、南小弓村などの水田を潤おすほどの重要な水源地であった(註3)。現在でも、谷間の各所に清水が勢よく噴出する泉が残っている。このような豊かな水源を背景として、この周辺には、馬蹄形貝塚や点在貝塚を伴う大型の集落が数多く分布しているのである。
例えば、後期に属するものだけでも、小金沢谷に面して、六通西貝塚(点列)及び小金沢貝塚(点列)、泉谷津に面して有吉貝塚(馬蹄形)及び上赤塚貝塚(馬蹄形)、大金沢支谷の谷頭には大膳野北貝塚(馬蹄形)がある。これらのおのおのについては別に述べるが、六通貝塚と支谷を共有する六通西貝塚について、ここに簡単に触れておきたい。