この中央部の道路によって穿鑿されたその断面をみると、貝層部の外側末端に当たる位置で、炉址を中心に、直径約五メートルの堀之内式期の竪穴住居址が露出していた。それは地表下一・二~〇・八メートルほどの深さにあり、地表が傾斜しているにもかかわらず、床面は水平であった。しかし、床面上には貝層の堆積がなく、表土下に薄く混貝土層があり、これを覆っていたにすぎなかった。なお、周辺の貝層部をボーリング棒によって模索してみたところ、貝層の厚い部分は五~六メートルから、七~八メートルの範囲に限定され、それが各所に点在していた。
地表面における土器の散布状態をみると、堀之内、加曽利B及び安行Ⅰ・Ⅱ式が認められ、特に堀之内、加曽利B式の土器が主体をなしていた。したがって、この遺跡は、点在貝塚を伴い、後期を主体とする集落であるといえよう。なお、すでに日本住宅公団の宅地造成のため、この遺跡は未調査のまま消滅しようとしている。
【脚註】
- 伊藤和夫『千葉県石器時代遺跡地名表』昭三四年
- 杉原荘介「千葉市東南部丘陵地帯遺跡分布調査報告」昭四三年
- 「古市場村(上総)与椎名村南小弓村水論之事」(元禄一六年)加曽利貝塚博物館蔵