Ⅻ 南生実台貝塚(南生実町峠の台所在)

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 東京湾に面した大覚寺谷の奥部に位置し、東側の舌状台地は、南生実城址として有名であるが、その北側のくびれ部(北虎口)に近い西側縁辺の傾斜面に立地する。標高は二二メートル、水田面との比高は約一二メートルをはかる。現状は畑地だが、貝層部の東南端及び西北端は民家の敷地のために削平されている。
 貝層部は直径約七〇メートルの範囲に、二つの孤状堆積群が南北に対峙して馬蹄形を呈する。開口部は東・西二カ所にあり、その東側の大きく開いた開口部に、直径一〇メートル前後の小堆積が二カ所ある。遺跡全体が西方にやや傾いており、西側の開口部は直接大覚寺谷に向っている。
 この遺跡は未調査のままであり、詳しいことは不明である。現地踏査や表面採集の資料によると、まず土器は、一部から縄文早期の鵜ガ島台式と茅山上層式が発見されるが、貝層部では後期の堀之内式と加曽利B式に限られている。しかし、全体に遺物の散布量が少なく、石器類の発見はほとんどない。なお、貝層部を構成する貝類は、ハマグリ・シオフキ・アサリを主体とし、ほかにキサゴが認められ、いわゆる純鹹貝層である。貝層はそれほど厚くないが、それでも、〇・五~一メートルにも及び、いわゆる点在貝塚ではない。
 したがって、この遺跡も、馬蹄形貝塚を伴い、後期を主体とする集落である。しかしこの時期は、中期よりも一層巨大化するのが一般的傾向であるのに対して、それほど存続期間が短かいわけでもなく、また大型貝塚の凋落する後期末葉のものでもなく、しかも広大な舌状台地が控えているにもかかわらず、きわめて狭小な馬蹄形貝塚しか残していない。この点は亥鼻貝塚など、東京湾に直接面している台地上に所在する貝塚の数が少ないことと併せて、なにか特別な意味を暗示しているかに思われる。
 なお、この遺跡の周辺には、後期の貝塚集落としては、東北方約七百メートルの位置に上赤塚貝塚がある。この遺跡は、泉谷津の河口部にあり、比較的東京湾に近いので、この南生実台貝塚と比較してみる必要があるだろう。