2―55図 誉田高田貝塚の全景(両面中央部やや下の部分。南東上空より昭和45年撮影)
貝層部は、一五〇×二〇〇メートルの範囲に、四つの大小の堆積群が馬蹄形に展開し、その開口部は南に向っている。中央凹地との比高はごくわずかである。市内でもっとも内陸に位置し、しかも標高がもっとも高い貝塚でありながら、その貝層部を構成する貝類はほとんど鹹水産のものであることから、古くから注目されてきた(二―五六図)。
2―56図 誉田高田貝塚の周辺地形図
(『誉田高田』昭和28年)
昭和二十九年八月、学習院高等部によって発掘調査が行われたが、その主な遺物は次のとおりであった(註1)。
(一) 土器 阿玉台式、加曽利E式、堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ・Ⅱ式
(二) 石器 打製石斧、たたき石、石皿、すり石
(三) 魚骨 マダイ・ヘダイ・スズキ・コチ・ボラ
(四) 貝類 キサゴがもっとも多く、ハマグリがそれに次ぐが、その量差はいちじるしい。
その他人骨も発見されている。
特に重要なことは、このような地理的環境では、漁撈活動には不適であったはずであり、出土した魚骨もきわめて僅少であった。これも、遺跡直下の谷で捕獲したものではなく、むしろ、下流地域まで下ったか、あるいは間接的に交換されたものであろう。また、貝にしても、もし遺跡近辺まで海進があったとすると、この遺跡と、同時期の下流の遺跡、例えば矢作貝塚、台門貝塚、荒屋敷貝塚、などは、いずれも海面下に水没していたことになり、きわめて不合理であるという(註3)。
これらの問題は、ただ単に、この遺跡だけのことではなく、深い支谷や谷頭の奥に立地する貝塚の様相をみて、貝類の繁殖が可能だったからだとするのは早計である。これは、都川水系の遺跡群の相互の関連性をとらえる上でも、海水面の上下運動や関東造盆地運動の作用をとらえる上でも、きわめて重要な問題を提起しているのである。
(後藤和民)
【脚註】
- 『誉田高田貝塚』学習院大学高等部史学科 昭和三〇年
- 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』 昭和二八年
- 金子浩昌「縄文時代の漁撈活動」『千葉県石器時代遺跡地名表』昭和三四年