昭和三十年代の考古学界では、関東地方における晩期縄文式土器の再検討が活発に行われはじめ、縄文後期末より縄文晩期前半に至る、すぐれた資料を包蔵しているこの貝塚の再検討が必要とされ、昭和三十九年度に明治大学によって、縄文式土器の層位的検討と、貝塚の完全な測量図の作成を目的とした調査が行われた。
その結果、従来安行Ⅱ式といわれてきた土器を含む、厚い貝層が検出された。そしてその上半には三叉文をもつ土器片及びその他の晩期初頭の土器群が混入していた。また下半の数層には、安行Ⅱ式のみの単純層と、安行Ⅱ式とⅠ式とが混在する文化層がかなり厚く堆積していることがわかった。
測量調査においては、ボーリングによる貝層部の確認によって、従来の、貝塚形態に対する表面的な把握を若干修正した。開口部の反対側に、貝殻の散布がごくまばらな部分があることは知られていたが、この測量によって、この種の馬蹄形貝塚は、元来、二つの開口部をもち、二つの孤状堆積群が対峙する傾向のあることを提示したのである(註2)。
【脚註】
- 向坂鋼二「雨の犢橋貝塚発掘」『ミクロリス』14 昭和三一年
- 戸沢充則「千葉市犢橋貝塚」『日本考古学年報』16 昭和三九年