2―57図 園生貝塚の周辺地形図
貝層部は、直径約一三〇メートルの範囲に、北は開口した馬蹄形を呈する。貝層部は山林になっており、いたるところに盗掘溝があり、かなり攪乱されているが、周辺部は未調査のまま宅地化されている。
この貝塚は、「長者山貝塚」として、すでに明治年間から学界に紹介されている(註1)。主な調査としては、まず昭和二十五年の早稲田大学による発掘がある。このとき、A・B二地点が設定されたが、A地点では貝層が一メートル前後に堆積しており、打製石斧一個、鹿角製有孔角器二点が発見され、土器は堀之内式、加曽利B式及び安行式などが出土したが、加曽利B式が主体をなしていた。またB地点では、貝層は二メートルにも達し、明らかに上部と下部が判別できるように累積しており、下部の貝層からは堀之内式、上部の貝層からは安行式が「判然層位をなして発見」されたという。
また、自然遺物としては、シカ・イノシシなどの獣骨、クロダイなどの魚骨が検出され、貝類は内湾性のもの二〇種が認められ、そのうち、オキアサリ・ハマグリ・キサゴがもっとも多かったという。なお、このほかに、人骨が発見され、岩石、炭、灰、赤色顔料などが出土している(註2)。
そのほか昭和二十六年から一〇年間にわたる千葉大学の地質学的調査が継続して行われているが、その考古学的成果は必ずしも的確に報告されてはいない。ただし、この間の発掘出土品はおびただしい量にのぼり、後期の竪穴住居址のほかに、晩期の安行Ⅲa式の文化層も発見されている。また、土偶や貝輪などの出土も伝えられているが詳細は不明である。
さらに昭和三十八年五月、明治大学の測量調査が行われ、この遺跡の全貌がはじめて定着され、その形態が明らかにされた。このときも、表面採集によって、この遺跡が縄文晩期の安行Ⅲa式まで存続していることが確認されている。
【脚註】
- 大野雲外「園生貝塚に就いて」『人類学雑誌』二二巻 明治二九年
- 西村正衛「千葉県都賀村園生貝塚」『日本考古学年報』1 昭和二六年