昭和四十一年五月、東千葉の土地区画整理に伴う土取り工事のため、その全面が破壊されることになり、千葉県教育委員会によって、緊急発掘調査が行われた。しかし、調査に着手したときは、すでに遺跡の過半は削り取られ、南端部の一角のみが、その調査の対象となった。
この東南端は、すでに川崎製鉄の工業用水道路のため、南北方向に切り取られ、その南面は麓の民家敷地によって切り崩されており、その旧来の地形はほとんど不明である。ただ、その断面をみると、かなり厚い貝層が露出しており、従来は斜面において大量の堆積が存在したことが推定される。
ところが、この緊急調査によって、平坦な台上の貝屓部を開いてみると、意外に貝層は薄く、そのほとんどは、細かく破砕された貝を含む土層であった。これは明らかに縄文時代以後の新らしい時期に攪乱を受けたものであり、発掘の結果、そこには古墳時代の鬼高期の住居址が発見された。そして、時おり晩期の文化層の上に、後期の文化層が重なっているといった、層位的逆転がみられた。
しかし、この調査区の西端から、縄文晩期・安行Ⅲb式の方形住居址が一戸発見された。それもすでに削り取られた断層によって発見されたため、その過半はすでに不明であった。ただ、この住居址の存在によって、従来は縄文中期の阿玉台式のみを出土する遺跡と思われていたのに対して、新らしい事実が確認された。
なお、土取りによってつくられた断層から、堀之内式期の住居址も発見され、表面採集の土器からでは、主に堀之内式、加曽利B式などが確認されている。また、貝類は、ハマグリ・キサゴ・シオフキ・アサリを主体とし、オキアサリ・カガミガイ・ツメタガイ・アカニシなどが目だっていた(註)。
【脚註】
- これらの観察は加曽利貝塚博物館の「踏査記録」による。なお、この調査結果は未報告。