はじめて、晩期の存在を確認したのは、昭和三十九年の緊急調査であり、六本のトレンチによる大発掘の際であった。この調査によって、この遺跡からは、安行Ⅲa式、姥山Ⅱ式、姥山Ⅲ式、安行Ⅲc式、前浦式、大洞B式、大洞BC式、大洞C1式と呼ばれる土器が出土している。それは晩期の初頭から中葉にかけての時期に当たるが、それ以降の千網式や大洞C2、大洞A、大洞A′といった晩期末葉の土器は、現在のところ認められていない。
しかもこれら晩期の土器は、ほとんど馬蹄形をなす貝層部の内側から出土しており、特に、中央の凹地からも各型式の土器が発見されているのである。縄文後期においては、その竪穴住居址が、主に貝層部の外側部に展開していたのに対して、この時期の住居址が、貝層部の東北端の開口部近くの、明らかに内側から一基発見されているのである。
また、貝層部の東側堆積群内側においては、姥山Ⅱ~Ⅲ式及び大洞C1式の皿型土器や、安行Ⅲa式の壺形土器などとともに、安行Ⅲa式の石剣と大洞C1式の土偶脚部などが集中して発見されており、明らかに晩期の文化層が存在することを確認した(二―五八図)。
2―58図 加曽利南貝塚出土の土器
(大洞C1式)
なお、この時期の貝層はなかなか認めがたいが、東側堆積の内側において、「姥山Ⅱ式を伴なう貝層の存在が知られており、この貝層は本貝塚の調査によって知られる最も下降した時期のものである」という(註2)。
しかし、以上のような晩期の文化層を確認すればするほど、なお、中期や後期に比較するならば、それはあまりに零細であり、稀薄であることは否定できないであろう。このように、かつて縄文早期の茅山式期から晩期の大洞C1式期まで存続してきた加曽利集落も、晩期中葉からはほとんど姿を消してしまうのである。
(後藤和民)
【脚註】
- たとえば、昭和三四年の『千葉県石器時代地名表』にも晩期の記載はない。
- 慶応義塾大学鈴木公雄の教示による。