2―59図 貝塚における貝殻の散布(加曽利貝塚 昭和38年3月)
たしかに、「貝塚」は、当時の生活の残滓を遺棄した、いわゆる「ごみ捨て場」であり、したがって、当時の食糧の残滓も含まれていたことは事実であろう。その中で、もっとも残り易く、もっとも多量に残っているのが貝殻であるところから「貝塚」と称されるのであって、その中には、植物質の残滓・貝類以外の動物質の残滓(獣骨類・魚骨類)も含まれている。
ところが、これらの遺物は非常に残りにくく、植物質のものはそのほとんどのものが腐食してしまい、たまたま、何らかの条件で炭化したものであるとか、木の実などの中で、堅果類や種子などが辛うじて残るにすぎない。
また、獣骨・魚骨の類も酸に弱く、腐食してしまうが、貝塚の中にある場合には、貝殻のカルシウム分が、炭酸ガスを含んだ雨水などによって溶け、炭酸カルシウム溶液となり、それが獣骨類に沈着して腐食を妨げるため、今日にまで残ってきているのである(註1)。したがって、貝層堆積をもたない遺跡(包含地)では、これらが残ることはきわめてまれである。これらは人間の骨の場合でも同様である(埋葬の項に関係あり)。
大規模な貝塚であっても、その形成されるに要した時間を考えると、一人の人間が食べた貝の殼だけでもこのような貝塚はでき上るということもいわれている(註2)。また、それほどに貝ばかりを食べていると、自家中毒症を起こすともいわれている。
以上のように、貝ばかりを食糧としていたのではないことはわかるのであるが、では、当時の食糧資源はどのようなものであったかを追求するためには、やはり、貝塚がもっとも有力な資料になってくる。それは貝塚に、もっとも多く、当時の生活の浅滓が残されているからである。
千葉市内における、貝塚の発掘報告書の公刊例が少ないため、市内全体の傾向をつかむことは困難であるが、桜木町加曽利貝塚の例を中心に見てゆきたい。
加曽利貝塚の発掘で、最近のものは、昭和三十七年と昭和三十九年~四十年にかけてのものとがあるが、後者の報告は未刊行であるので、前者の報告例をとりあげてみたい(註3)。
昭和三十七年の調査は、北貝塚(現在、住居跡群保存施設)で行われ、貝層は、縄文後期・堀之内Ⅰ式期に形成された。