Ⅳ 貯蔵方法

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 また、貯蔵可能な食糧を貯蔵するために用いられたと見られる貯蔵穴と呼ばれる施設が、中期から後期にかけてひんぱんに作られている。その初現は前期にあるようであるが(註20)、特に中期には集落の一部に密集して作られている場合が見られる(註21)。
 この時期の貯蔵穴は、前半期と後半期とで若干その形態を異にしている。
 昭和四十一年の坂月町蕨立貝塚の発掘の際に、G地点の住居址の傍に、二基の貯蔵穴といわれる竪穴遺構が相接して発見された。
 これらの竪穴は、いずれも後に墓壙として使用されていたのであるが、一方は直径が底部に至るにしたがって大きくなっていく、三角フラスコ型を呈しているのに対し、他は直径は一定で、壁が垂直になっているものであった(二―七三図)。

2―73図 貯蔵穴(蕨立貝塚発見,加曽利EⅠ式の袋状ピット(下)と加曽利EⅡ式のピット(上)が重複している)

 この二基の竪穴遺構の時期を比較すると、前者が、加曽利EⅠ式期ないしははその直前型式期であるのに対し、後者は、加曽利EⅡ式期ないしは同Ⅲ式期に属するものと思われた。
 このあたりの時期を境として、貯蔵穴の形態が変化するようであるが、それが何に起因するものであるかは不明である。
 加曽利貝塚からは穴の中に貯蔵された縄文時代後期のクリが炭化した状態で発見されている(二―七四図)(註22)。

2―74図 食糧を貯蔵したピット(加曽利貝塚,炭化したクリが充満していた)

 これは、貯蔵するという行為が、当時、すでに行われていたということを証明しているであろう。