三 衣類と装身具

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 そして、衣生活であるが、当時、衣料品として使用されたものが、遺物として発見されていないところから、直接的資料にもとづく復原が不可能になっている。
 そのため、文化人類学的資料など、他学の資料を応用したり、ほかの間接的資料から推定したり、というような方法によってその復原が試みられているのであるが、未だ推定の域を脱することはできない。
 当時の遺物から推定するための資料として、土偶があげられているが、当時の人々の土偶製作の目的は、他の呪術的方面にあって、服装の表現ではなく、したがって、古墳時代の人物埴輪のような、具体的、写実的なものではない(二―八五図)。
 文化人類学的知見にもとづいて、一般に考えられていることは、腰部を覆うということは行われていたらしいということである(二―八三図)。

2―83図 当時の生活(復原図)加曽利貝塚博物館野外施設壁画(松下紀久雄氏画)

 それは、当時の気候が今日の気候よりも若干温暖であったであろうということが、ハイガイの出土などから想定されるので、その程度の着衣でも体温の維持には十分であったと推定される。
 衣類の材料も、その資料がないのであるが、獣類の捕食の際にとれる皮革なども、当然、利用されたであろうし、樹皮、その他の植物の繊維なども利用されていたであろう。縄文時代も後期に入ると、非常にこまかい縄文が見られるようになってくる。これは、とりもなおさず、細い繊維を使用した縄の存在を示すものであるし、また、土器の底部に見られる網代(あじろ)痕などには、織物技術の存在すら感じさせられる。
 衣服の意義の一面である、寒暑からの防護という、衣服の実質面については、以上のようにはなはだ漠然とした状態であるが、他の一面である装飾については、いわゆる装身具の遺物の出土により、かなりのことがらが知られている。
 装身具を考えるときには、その装着する部位によって、考えてゆかねばならない(例えば、耳飾り、首飾りなど)であろうが、遺物として出土するときには、その装着の状態を示しながら発見される例はきわめてまれであるため、その形態と、それから推した装着の状態とによって考えられている。この装身具の出土も、中期以後に集中している。
 装身具の中でもっともよく見られるのは、耳飾りである。
 耳飾りは、〓(けつ)状耳飾り・滑車型耳飾りに大別され、材質も、石製・土製などがある。
 〓状耳飾りは、中国の玉器の一つである「〓(けつ)」の形態に似ているところから名づけられたもので、円形、長円形あるいは隅丸三角形などの一方から半ばすぎまで切り込みを入れたものである。
 よく見られるのは滑車型耳飾りである。また、これは、時代の流れに応じて、変化にも富んでいる。
 中期のものは概して小型(径一~二センチメートル)で、短かい「つづみ」状を呈する。土製で、全体に丹彩を施したものや、アワビの殼を丸く加工してはめこんだものなどが発見されている(二―八四図)。

2―84図 装身具(右側 1~6ヘヤピン,7~10耳飾り,11~16貝輪,左側 1~4牙玉,5~7腰飾り,8~11勾玉)

 後期のものになると、大型になり(径三センチメートル前後)、彫刻を施したものも出現してくる。
 これらの耳飾りの装着については、後期後半の土偶などによって見ることができるが、耳たぶに穿孔し、そこへはめこむということが行われていたようである。
 また、埋葬人骨で、頭骨の双方また一方の耳にあたる部分に、これらの遺物が発見されることがあるところから、耳飾りにまちがいないものとされている。
 次いで発見されるのは、腕輪である。
 腕輪は、しばしば埋葬された人骨の腕に装着されたままの状態で発見される(二―八八図上)ので、疑う余地はないであろう。ほとんどのものが貝製品である。材料となった貝殻には、アカニシ・ベンケイガイ・サルボウ・イタボガキ・ハマグリなどがあげられている。
 そして、その形態から、装着の状態が推定されるものに、髪飾りがある。これは多く骨製で、細く伸びた足をもち、頭部は大きくふくらんだりして、彫刻の施されている場合が多い。
 そのほかは玉類で、紐などを通して、首、手、あるいは腰などを飾ったものであろう。材料によって、形態もバライェティーに富んでいる。
 材料には、骨・角・歯牙・石・土などが使用されている。
 その中で、イノシシの門歯を使用したものは、古墳時代に盛行した勾玉の祖型ともいえるような形態となり、石製のものには、それを模したと思われる石器時代勾玉とよばれる玉が製作されている。
 このような装身具は、身体を装飾するという本源的な用途のほかに、やはり、それを装着することによって何らかの利益を得ることができる、という呪術的な要素の存在を推定することができるのではなかろうか。
 装身具といっても、その製作にはかなりの時間を要したであろう。採集経済という段階にある縄文時代人は、食糧の確保も非常に不安定であっただろうと考えられる。そのような中にあって、なお、時間をさいて、このような装身具を製作するということは、彼らがその製作と装着に、それ以上の何らかの意義を認めていたと見ることができるであろう。