このような貝塚の数や規模の優越が、はたしていかなる意義を物語っているのであろうか。
それをただ単に、当時の東京湾沿岸が貝類の旺盛な繁殖にもっとも適し、それを容易に採集できるきわめて恵まれた自然環境であったとか、それに対して、たまたま縄文時代人がことさらに貝類を好み、もっぱら食糧に供していたというだけでは、「貝塚文化」そのものの実質的な意義・内容はなんら把握できない。
まして、貝塚の表面的な現象だけをみて、その形を環状、馬蹄形、点列、点在、地点……などと分類してみたり、市川市の曽谷貝塚こそ、「わが国最大の馬蹄形貝塚であることはまちがいない(註2)」などと、その規模の大小を論じてみても、実は、きわめて無意味なことなのである。
なぜならば、考古学はじまって以来、貝塚とは、当時の人びとがその日その日の食糧として採集してきた貝の、その食べかすを捨てた場所だと考えられてきた。すなわち、現在のところ、貝塚そのものの実質的な意義は、結局「ごみ捨て場」以外のなにものでもないのである(註3)。
もし、そのとおりであるならば、その「ごみ捨て場」の形が「馬蹄形」であろうと、その規模が「日本最大」であろうと、いったい、どんな意味があるだろうか。むしろ、われわれにとって問題なのは、貝塚そのものではない。そのごみを捨てた当時の人間集団の存在であり、その人間集団が貝塚を残した行動そのものの意義なのである。