従来、貝塚と集落との関係をとらえるとき、貝塚そのものを重要視するあまり、貝塚によって集落や人間集団そのものを規定しようとする傾向が強かった。
例えば、「貝塚は、その遺跡に住んでいた人々が生活の場を通じてゴミを捨てた場所である。この観点から貝塚をみなおすならば、集落の形態論についてある種の見通しをもつことは不可能でない」といい、各地の貝塚が馬蹄形を呈するのは、当時の「社会組織のしくみから必然的にもたらされた結果としての馬蹄形集落が存在」したのだという。そしてその「馬蹄形集落の中で生活していた人々は、この共同体規制を破らない限り勝手に他の場所に住居をつくることはなし得なかったのではないだろうか(註4)」というのである。
この観点は、すでに現在の考古学界の定説となっており、馬蹄形貝塚の「現在しめしている平面形こそは、かつてそこに馬蹄形の集落が形成され、それが長い期間にわたってまもられていたことをしめすもの(註5)」と理解されている。しかも「ここで発見される住居址は、いずれも貝塚の部分の貝層下や貝層中に限られており、したがって住居址の分布は、大きくみて馬蹄形をあらわしていたと考えられる。このことをつきつめていえば、住居のあり方が貝層の分布を規制した(註5)」というのである。
ところが、従来の発掘調査においては、常に貝塚自体やその内側のみが対象となり、貝塚の周辺部が本格的に調査されたことは、いまだかつて一度もなかった。まして、集落の全貌をとらえようとするような遺跡の全面発掘などは、これまでに一度も試みられたことがない。
かつて貝塚の周辺部を調査したこともなく、貝塚の外側には同時期の住居址群は決して存在しないことを確認したこともないのに、当時の集落は貝塚の内側にあると主張する。例え日本最大の馬蹄形貝塚といっても、たかだか直径二五〇メートル、そんな狭隘な「ごみ捨て場」の内側に、縄文時代の人びとをむりやり押し込めようとする。それはまさに、観点の偏狭さを物語っているにすぎないのである。