集落内貝塚論

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 第二項でも述べたとおり、ここ一〇年間に従来の観点を根本的に修正しなければならない事実が続々と発見されてきた。
 例えば、千葉市坂月町の蕨立貝塚とさら坊貝塚は、従来は別々に独立した二つの遺跡であると考えられてきた。しかし、その名称が異なるのは、たまたまその所在地の字名が違っていただけで、その立地や範囲及び所属時期からみれば、当然、一つの集落としてとらえるべき遺跡である。
 蕨立貝塚は、数カ所に点在する貝塚の部分だけが発掘調査され、いずれの貝塚からも住居址が発見された。すなわち、それらの貝塚はいずれも、廃棄された住居址に投入された「ごみ捨て場」であった。とすれば、それらの住居址に最後に貝を捨てた人びとの住居は、いったいどこにあったのであろうか(註6)。この蕨立貝塚の周辺部は、未調査のままブルドーザーで削平され、住居址の有無を確かめる者もいなかった。
 一方、さら坊貝塚においても、点在する小貝塚を伴う住居址群が確認されていたが、これらも未調査のまま破壊されてしまった。しかし、たまたま筆者らは、そのブルドーザーが削平したとき、貝塚を伴わない住居址を多数発見し、それらが蕨立貝塚と同時期のものであることを確認することができた。この蕨立貝塚とさら坊貝塚とは、小さな谷頭をへだてているとはいえ、わずか数十メートルの距離しかない。そんな近い位置にありながら、別々の集落が背中合せに存在していたとは到底考えられない。
 また犢橋貝塚においても、本格的な発掘調査では、貝層部及びその内側からは、縄文時代の住居址は一軒も発見されなかった。にもかかわらず、宅地造成の際には、その馬蹄形貝塚の貝層部から三〇~五〇メートルも離れた位置に、堀之内式から加曽利B式の時期の住居址群と貯蔵穴群が発見されている。これらの遺構が馬蹄形貝塚の外側にあっても、その貝塚を残した人びとの集落であることは明らかであろう。
 その上、桜木町の加曽利貝塚においては、先にも述べたとおり、南貝塚の貝層部は主に縄文後期に属しているにもかかわらず、その貝層下には、本来なら北貝塚の内側にあるべき縄文中期の住居址が多数発見されている。また、北貝塚の外周部からは、中期と後期の住居址がいくつも確認された。
 特に、南貝塚の東側平坦部や傾斜面一帯にかけては、元来北貝塚に属すべき中期の住居址が、その貝層部からはるか二百~三百メートルをへだてて十数戸も群集している。しかもそれらの住居址のうちの半数が、それが廃棄された後に投入されたと思われる小規模な貝層を包蔵していたのである。これら大型貝塚の内側や外側に展開している住居址群は、合せて一個の集落としてとらえるべきことは、いまさらいうまでもなかろう。
 もともと縄文時代の集落といっても、直径百メートルや二百メートルの馬蹄形貝塚の内側などに包含されるほど、ちっぽけなものであるわけがない。おそらく、その貝塚の立地する舌状台地のほぼ全域にわたって展開していたにちがいない。すなわち、貝塚などは、その集落の中のごく一部分であり、「日本最大」の貝塚でさえ、集落の一角に包含してしまうほど広大なものであったと思われる。
 このように、新しい歴史を記述するには、新しい観点と新しい事実によって、従来の歴史を書き替えてゆかねばならないのである。