第一項及び第二項では、千葉市内における縄文時代の遺跡の分布とその代表的な遺跡について、ごく簡単な観察をしてきた。しかし、それはあくまでも「千葉市」という行政区画内における現象を、きわめて形式的に羅列したにすぎない。
しかし、この現代における行政上の便宜的・形式的な区画内において、縄文時代に生きた人びとを中心にして、当時の集落や社会の実態をとらえることは、ほとんど不可能に近いのである。なぜならば、縄文時代には、もともと「千葉市」という行政区画はなかったからである。
当時の人間集団の行動範囲には、テリトリー(territory)とか文化圏などの限界があり、そこに歴史的地域を仮設することはできる。しかしそれは、当時の人間集団の性格や、その行動の空間的広がりのとらえ方によって決定されるもので、行政区画とはなんら関係がない。むしろ、そこに無関係な「千葉市」という区画が介在することによって、かえって、当時の集落や社会の実態や有機的な動態が不明確になってしまうのである。そこで、せめて関東地方における縄文時代の文化様相を全体的に概観し、その中で、必然的にとらえられる地域的な傾向や特色を求めてみた。そして、その文化現象の基盤的な背景として、たまたま、「千葉市」が含まれる地域を限定するならば、それは最少限度、東京湾東岸地域を対象とせざるをえない。すなわち、ここでは、千葉市を東京湾沿岸の任意的な局部としてとらえるにすぎないのである。