集落遺跡の類別

165 ~ 166 / 452ページ
 縄文集落といっても、その所属時期や立地条件によって、その規模、形態あるいは生産様式など、その具体的な様相や性格が異なってくるはずである。
 しかし、現在のところ、千葉市内はおろか、日本全国においても、その集落の様相や性格を規定しうるほどの調査・研究はなされていない。まして、一集落の全域をくまなく発掘調査した例などは、いまだかつて一度もないのだから、各時期の集落の規模や形態や構造などを正確にとらえることは、ほとんど不可能に近い。
 しかも、ここに対象とする東京湾東岸地域においては、この地域のもっとも特徴的な現象として、従来、もっぱら注目され発掘調査の対象となってきたのは、そのほとんどが貝塚を伴う遺跡である。そこで、地域的な特色の象徴である貝塚を中心に、ごく単純な類別を試みると、すなわち、次の二種に分けられる。
  A 貝塚を伴う集落
  B 貝塚を伴わない集落
 ところが、このうち「貝塚を伴わない集落」については、なぜか発掘調査の例も乏しく、その実体はほとんど不明のままである。
 しかも、高田町の水砂遺跡や、源町のすすき山遺跡などのように、貝塚を伴わない遺跡と思って、実際に発掘してみると、竪穴住居址の底などに貝が堆積していたという例が少なくない。このような可能性は、散布地や包含地、あるいは集落以外の貝塚を伴う遺跡などについてもいえることである。したがって、そのような不確実な遺跡については、ここでは割愛せざるをえないのである。
 以上のとおり、千葉市を含む東京湾東岸地域における縄文時代の集落として、ここで取り上げることのできるのは、結局、「貝塚を伴う集落」だけに限られてしまう。これをいま仮りに、「貝塚集落」と呼ぶことにする。