これらの遺跡の一部から、早期前半の井草式や夏島式などの土器片を伴出する場合もあるが、明らかに貝塚を伴う集落としてとらえられるのは、いずれも早期後半の茅山式期になってからである。そしてその集落の分布状態をみると、東京湾沿岸の旧海汀線に直接面した台地上に、点々と分散している。この傾向は、貝塚集落以外の遺跡の分布状態においても同様である。ただ、千葉市の小中台町において、一つの台地上に、同じ支谷に面して、鳥込貝塚、鳥込東貝塚、鳥込東遺跡と三カ所も茅山式期の遺跡が並列しているが、このような例はごく稀で、むしろ特異な現象というべきであろう。(二―九一図)。
2―91図 千葉市内における貝塚集落の分布(縄文早期)
この茅山式期の居住施設としては、向の台貝塚においては不整台形の、また鳥込貝塚では方形(または隅丸方形)の、ともに内部に炉をもたない竪穴住居址が発見されている。しかし、むしろこの時期の特色は、そのような竪穴住居址が少なく、「炉穴」とよばれる遺構が随所で多数発見されることである。
この「炉穴」は、長径一・五~二メートル、短径〇・六~一・二メートルの楕円形をした小竪穴で、舟底形をしたその底部に多量の灰や焼土を伴うものが多い。これは住居址というよりは、おそらくキャンプなどに伴う屋外の炊事址であろうといわれている。しかも、これらの「炉穴」は、鳥込貝塚や鳥込東遺跡などのように、一カ所に集中し、それがいくつも重複して発見される例が多い。
これらの現象から、当時の人びとは、小人数ながら集団をなして行動をしていたことはたしかであるが、竪穴住居内には、まだ炉をもたず、炊事は屋外で行っていた。その「炉穴」自体の規模も、一人のおとながやっとうずくまれる程度の狭小なものである。しかも、それらの遺構から発見される遺物もきわめて少ない。特に数基の「炉穴」が重複するほどに、短期間に何度も掘りなおしているので、その使用期間は決して長くはなかったと考えられる。
炉穴に比べて、竪穴住居址の発見例がきわめて乏しいことは、この時期の集落は、竪穴住居が一般化するほど定着していなかったことを物語っている。しかも、集落に伴う貝塚も、そのほとんどのものがきわめて小規模なブロック状の堆積が、台地の縁辺などに点在しているにすぎず、いわゆる点在貝塚が主体をなしている。
それに、小規模な遺跡が各地に分散的に点在していることから、当時の人びとは、ごく小人数の集団が個々に独立して、季節的な鳥獣や魚貝を求めながら、各地を転々と流動していたと思われる。