縄文中期の様相

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 東京湾東岸における貝塚集落は、中期になると飛躍的な発達をみせ、前期の集落数の二・五倍にふくれあがる。しかもその急激な膨脹の原因は、環状や馬蹄形をなす大型貝塚がにわかに出現したことにある(二―一一表参照)。
 すなわち、前期に比べて、点列貝塚の方はほとんど増加をみないのに対して、この時期になって突如発生した馬蹄形貝塚の数だけが増加している。この現象は千葉市においてもっとも顕著であり、集落数が前期の約四倍にも膨脹し、そのうち馬蹄形貝塚が六割以上を占めている。
 なお、これを東京湾東岸の各地と比較してみても、千葉市は貝塚総数七五カ所のうち三一カ所(約四二パーセント)を占め、そのうち馬蹄形貝塚は、総数四三カ所に対して二一カ所(約五〇パーセント)を占めている。このように、縄文中期における貝塚集落の分布をみても、千葉市がもっとも密集した地域であり、特に馬蹄形貝塚の出現においても、千葉市がその中心的な位置にあったことがわかる(二―一二表参照)。
 中期における貝塚集落の立地をみると、東京湾の旧海岸線よりも、むしろ大きな河川や支谷に沿って、かなり内陸の奥まで分布するようになる。特に千葉市においては、花見川支谷、葭川支谷、古山支谷、仁戸名支谷、都川源流支谷、椎名崎支谷など、当時は水量の豊富な河川であったと思われる支谷の奥、源泉地または中流地点に分布している(二―九四図)。

2―94図 千葉市内における貝塚集落の分布(縄文中期)

 例えば、加曽利貝塚の場合、この遺跡は、東京湾に注ぐ都川の中流から分岐した古山支谷の、ほぼ源流に近い奥地に立地している。従来は、この古山支谷の奥まで当時の海水が浸入し、貝類が繁殖していたと考えられていたが、地質調査の結果、この古山支谷は、縄文中期のころにはかなり水量の豊富な川であり、それ以前にも以後にも、かつて海水が浸入した形跡も、海水産の貝が繁殖した形跡も全くないことがわかった(註17)。
 ところが、加曽利貝塚から出土する貝類は、ほとんどが海水産の貝で占められ、むしろ淡水産の貝は珍らしい。当時少なくとも都川本谷まで下らないと、貝類の繁殖する海浜に至らなかったとすると、加曽利貝塚の貝は、旧古山川を約二・五キロメートル以上も下って採集され、ふたたび二・五キロメートル以上もさかのぼって運ばれたことになるのである。
 これは加曽利貝塚にかぎらず、この時期の貝塚集落全般についていえる傾向である。ただ、武石貝塚や亥鼻貝塚など二、三の例外はあるが、そのほかの大多数の集落が直接海汀線に面した台地の縁辺を避け、貝類が繁殖する海岸から少なくとも二~四キロメートルほど離れた支谷の奥を、わざわざ選んで占居している。特に誉田高田貝塚などは、都川の源流地点に立地し、当時の海浜まではおそらく七~八キロメートルもあったであろう。
 しかも、縄文時代には牛馬も存在せず、車などもまだ発明されていない。当時の唯一の運搬用具として、独木(まるき)舟があるだけである。この小舟を操つりながら、二~四キロメートルの川を漕いで下ったり上ったりして、当時の人びとは、わざわざ支谷の奥まで大量の貝を運び込んでいたのである。
 なお、中期になって、馬蹄形貝塚が出現する一方、早期や前期と同じような点在貝塚も相変わらず存続している。この点在貝塚と馬蹄形貝塚との関係について、ここに注目すべき重要な事実がある。
 まず、中期の馬蹄形貝塚四二カ所の中で、前期から継続している集落は、松戸市の通源寺、市川市の向台、下、下台、そして千葉市の矢作貝塚のわずか五カ所(約一二パーセント)にすぎない。
 また、主に中期だけの存続期間の比較的短かい集落でありながら、現に大型の馬蹄形貝塚を伴うものがある(松戸市の大橋白幡、平賀、中堀込、船橋市の後、海老ケ作、市川市の一の矢、千葉市の東寺山、廿五里北、荒屋敷、菱名、木更津市の上深作など)。逆に、中期から後期にかけて、存続期間が比較的長い集落でありながら、小型の点在貝塚しか伴わないものがある(東葛飾郡の中沢、松戸市の大塚越、牧之内、上本郷、貝の花、板の台、下須台、千葉市の殿台前、へたの台など)。
 これをみても、点在貝塚と馬蹄形貝塚との相違は、必ずしもその集落の存続期間の長短とは直接関係はなく(註8)、点在貝塚がやがて馬蹄形貝塚へ発展するという把握(註9)は明らかに間違いである。
 しかし、この両者の集落内における位置や堆積の様相の違いをはっきり区別した上で、点在貝塚と馬蹄形貝塚とを比較するならば、たしかに、馬蹄形貝塚を伴う集落は、点在貝塚を伴う集落よりも、存続期間が長いものが多いのである。これはむしろ、逆に、なぜ馬蹄形貝塚を伴う集落は、点在貝塚を伴う集落よりも、長期にわたって定住生産を維持できたか、それを物語るべき現象としてとらえるべきであろう。
 縄文中期の居住形態としては、直径四~六メートルの円形プランを呈する竪穴住居が出現し、それが普遍的になる。その床面には、四~六本の柱穴が穿たれ、その中央には必ず炉を伴っている。しかも、この時期の住居址の内外には、直径一メートル前後の、深さ一メートルにも及ぶ円形の貯蔵穴を伴い、床面には、時おり大型の土器が口まで埋め込まれた、いわゆる「埋め甕」が伴出する。これらは土中の温度の一定性を利用した天然の冷蔵庫の役を果たしている。
 個々の集落から発見される住居址の数も、前期に比べるとはるかに多く、一型式ごとの同時期存在をみても、おそらく前期の倍以上になるであろう。また、集落の存続期間も、前期のように一~二型式に限られるものはごく少なくなり、阿玉台式から堀之内式にかけて、中期の全時期にわたるものがきわめて多くなる。これらの現象をみても、この時期の集落が、前期に比べてはるかに長期にわたる定着性をもち、集落がにわかに安定してきたことがわかる。
 特に、馬蹄形貝塚のにわかなる発達と期を一にして、住居の形態が急に方形から円形に変化する。これはただ単なる表面的な形だけの違いではなく、その上に架けられる屋根や増改築の方法など、住居全体の構造や機能の変化を示している。このように、集落のもっとも基本的な居住形態に変化を与えたということは、この中期において、文化全体に発展的な変質が起こったことを暗示している(註18)。