縄文後期の様相

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 東京湾東岸において、貝塚集落のもっとも発達したのが、この縄文後期である。それは全体で一〇一カ所を数え、中期に比べると、更に一・三倍の膨脹をきたし、まさに「貝塚文化」の最高頂を示している。その中でも、やはり千葉市がもっとも多く、四三カ所(約四三パーセント)を占めている。
 同じ貝塚集落の中でも、点在貝塚を伴う集落の方は、前期以来その数の増減はほとんどみられず、馬蹄形貝塚を伴う集落だけが急激に増加している。すなわち、中期の四二カ所に対して六九カ所、約一・六倍の膨脹をきたしている。この現象は千葉市においても変わらず、中期の二〇カ所に対して三〇カ所で一・五倍に増加している。
 この時期の貝塚集落の分布状態をみると、東京湾東岸の全域的傾向としては、中期の集落がそのまま存続しているのは約半数の三五カ所で、残りの半数は新たに場所を選んで集落を新設している。
 特に千葉市においては、後期になって新設された集落は、犢橋、園生、台門、坂月台、花輪、上坂尾、荒立、野呂奥新田、台畑、六通、六通西、大膳野、南生実台、押元の一六カ所で、全体の約三分の一にすぎない。しかも、その新設のものがほとんど馬蹄形貝塚を伴う集落によって占められているのである。
 かつて中期初頭においては、前期から同じ場所に継続して集落が営まれたのは、三一カ所中六カ所、約五分の一にすぎず、その大部分のものは新たに設置された集落であった。これに比べると、貝塚集落はますます定着性を強めてきたことになる。しかも、これら後期における新設の貝塚集落は、中期の集落立地をそのまま継承しながらも、それを中心にして、更に内陸に向かって展開する傾向にある。例えば、花見川支谷の奥に犢橋貝塚、仁戸名支谷の奥に六通貝塚、椎名崎支谷の奥に六通西、村田川支谷の奥に大膳野及び大膳野北貝塚などが新たに出現している(二―九五図)。

2―95図 千葉市内における貝塚集落の分布(縄文後期)

 この時期の居住施設は、縄文中期とほとんど変わらず、直径五~六メートルの円形プランを呈し、床面に四~六本の柱穴を有し、その中央に炉を設けている。従来、この時期の住居址はなかなか発見されず、貝塚の貝層中に、平坦に踏みかためられた生活面や炉址が発見されることから、当時の住居は、ローム層を穿鑿する竪穴式住居ではなく、当時の地表面に築かれた「平地式住居」であったという説(註19)が有力であった。
 ところが、最近になって、関東地方の各地から後期の住居址が発見されるようになり、松戸市の貝の花貝塚(註20)や市川市の曽谷貝塚(註21)、そして犢橋貝塚や加曽利貝塚などにおいて、当時も中期と同じく竪穴式住居が一般的であったことが判明した。これも、貝塚などにおいて、従来の調査が貝塚の内側や貝層下ばかりに限定されて、その周辺部を発掘してみたことがなかったためである。
 そして、この後期においても、住居址の周辺に貯蔵穴を伴っていることも判明している。ただ、この時期には、中期のような大型の貯蔵用土器や埋め甕などが少なくなり、それに代わって小型で精巧な貯蔵用土器が数多くつくられるようになる。
 以上のように、縄文中期から後期にかけては、貝塚集落が急激に発達するが、それはほとんど馬蹄形貝塚のにわかなる出現と、すさまじい膨脹によるものであった。しかも、この馬蹄形貝塚の出現によって、集落がにわかに定着的になり、その発展によって集落がますます集中的になった。
 これほどに、貝塚集落が急激に発達した例は、東京湾沿岸以外にはその類例がなく、特に後期における馬蹄形貝塚の発達は、ほかのいかなる時代いかなる地域においても、決して見られないほどに特異な現象である。まさに東京湾沿岸における「貝塚文化」の中心であり、隆盛の頂点であった。