これは、貝塚集落のもっとも栄えた後期に比べると、約八分の一に減少したことになる。そのうち、点在貝塚は一〇カ所で、後期の約三分の一に減少したのに対して、馬蹄形貝塚はわずかに三カ所で、実に後期の二三分の一という壊滅的な現象をみせている。かつて貝塚集落のメッカであった千葉市においてさえも、晩期になるとわずかに七カ所、後期の約六分の一、そのうち点在貝塚は五カ所で約三分の一に、馬蹄形貝塚はたった二カ所で一五分の一に急減しているのである。
しかも、これらの遺跡において、明らかに晩期に属する貝塚を別に独立した形で伴っている例はきわめて少ない。むしろ大部分のものは、堀之内貝塚や犢橋貝塚のように後期の貝塚の外側や、貝の花貝塚や加曽利南貝塚におけるように、後期の貝塚の内側に、乏しい住居址やごく零細な文化層を点々と残しているにすぎない。すなわち、規模の小さい点在貝塚を伴う集落によって占められている。
その貝塚集落の分布状態をみると、なぜか縄文早期や前期と同じように、再び東京湾の旧海汀線に直接面した台地上を選んで占地するものが多く、その集落間の距離も遠く離れ、きわめて分散的になる(二―九六図)。
2―96図 千葉市内における貝塚集落の分布(縄文晩期)
この時期の居住施設としては、住居址の発見例がきわめて少ないので、不明な点が多い。例えば、流山市の上新宿貝塚においては、一辺八メートルの隅丸方形を呈する安行Ⅲa式の竪穴住居址が発見され(註22)、松戸市の貝の花貝塚では、直径七・八メートルの円形プランをもった竪穴住居址が発掘されている。しかも時期は安行Ⅲb式という(註23)。そして、加曾利南貝塚においては、安行Ⅲb式に属し、一辺五~六メートルの方形を呈する竪穴住居址が確認されている。これらは規模・形態がまちまちであるが、ここに再び、円形から方形への変化がみられるのである。
なお、この時期になると、住居址に伴う貯蔵穴の発見例はほとんどなく、また、大型の貯蔵用土器も全く姿を消してしまう。ただ、その代わりに精巧につくられた小型の貯蔵用土器が数多く発見されるだけである。
このように、縄文晩期になると、貝塚集落の数が急激に減少し、その規模も極端に零細化する。しかも馬蹄形貝塚がほとんど消滅すると同時に、集落の存続期間も短かく、その分布も散在的になる。これは、従来の隆盛からみるならば、まさに「貝塚文化」の消滅的現象といわねばならない。