以上でみてきたとおり、貝塚集落の変遷を、その生成――発展――消滅の全過程において概観してみると、まず小型の点在(点列)貝塚は、早期から晩期まで、縄文時代のほとんど全時期にわたって常に存在し、その数の増減はほとんど認められない。しかも、その後の弥生時代、古墳時代を経て、極端にいえば現在においてもいまだに存続しているのである。
ところが、環状や馬蹄形を呈する大型貝塚は、縄文中期になって突然発生し、後期においてもっとも隆盛をきわめるが、後期末の安行Ⅰ・Ⅱ式から晩期初頭の安行Ⅲa式の時期になると、にわかに壊滅的減少をきたす。しかも、それ以後は弥生時代にも古墳時代にも、極端にいえば江戸時代に至るまで、このような大型貝塚は二度と再び出現しなくなるのである。
このような点在貝塚と馬蹄形貝塚との消長の過程の相違は、ただ単なる規模や形状の差ではなく、両者の間に文化的意義の相違があることを如実に物語っている。
特に重要なことは、この現象が単なる貝塚そのものの消長ではなく、その貝塚を伴う集落自体の盛衰を物語っているということである。とりわけ馬蹄形貝塚の変遷をみるとき、それがにわかに発生する時期(中期)は、まさに縄文集落全体がようやく定着的になる時期であり、それがもっとも発達した隆盛期(後期)こそは、集落がもっとも大規模に発展し、しかももっとも集中的になる最盛期である。そして馬蹄形貝塚が急激に減少し、消滅する時期(晩期)は、また縄文集落自体がもっとも小規模となり、数もにわかに減少し、東京湾東岸地域においては凋落の一途をたどる時期でもある。
このように、馬蹄形貝塚の消長が、縄文集落自体の盛衰とともにあることは、そこにこそ、貝塚の文化的意義や集落の存立する基盤、すなわち生産的背景を解く重要な鍵が潜在することを暗示している。特に、馬蹄形貝塚が発達し、隆盛をきわめた縄文中期から後期にかけて、集落自体がにわかに定着的かつ集中的になることに、まず注目すべきであろう。