一 貯蔵形態の変遷

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 さきに「貝塚集落の変遷」の中でみてきたとおり、縄文集落の様相の変化に伴って、その集落における貯蔵形態が変化している。この食糧の貯蔵ということは、集落の存続や文化の進展のためには、きわめて重要な要素である。むしろ、いかなる時代においても、文化の進展のためには、人間集団が特定な地域基盤を選定し、そこに長期にわたって定住生活を営むことを必要条件とする。しかも、その定着のためには、まず長期にわたる食糧の確保と供給の安定性こそ当然の前提条件となる。すなわち、食糧を計画的・恒常的に確保するためには、当然、食糧の貯蔵法や保存食糧の存在が問題となる。そこで、東京湾東岸における貝塚集落の食糧貯蔵形態を、その集落の変遷の様相と対比させて、ここで概観してみる必要がある(二―一五表)。
2―15表 東京湾東岸における食糧貯蔵形態の変遷
発展段階編年時期貯蔵形態集落の様相
遺物遺構
生成期早期ほとんどなしなし小規模で散在的定着性に乏しい。
流動的分散期
前期貯蔵用土器出現(少ない)ほとんどなし
発展期中期埋め甕・貯蔵用土器の発達(大型)貯蔵穴の盛行大型化・長期定着性を示し,やがて集中化する。
長期定着的集中期
後期埋め甕・貯蔵用土器の発進(小型)貯蔵穴の盛行
消滅期晩期貯蔵用土器の小型化ほとんど消滅小型化し,分散的になり,定住期間が短かくなる。
短期定着的分散期

(後藤和民「東京湾沿岸における貝塚文化」『房総地方史の研究』1973)


 この表示によっても明らかなように、大型の貯蔵用土器や埋め甕が出現し、貯蔵穴などの遺構が発達するのと期を一にして、集落自体が定着的になり集中的になり、そして大型化する。これはただ単に、その貯蔵のための用具や施設が発達しただけではなく、その中味である貯蔵すべき保存食糧が実際に確保されたことを意味する。しかも、その貯蔵形態の発達と馬蹄形貝塚の消長との間に、時期的な一致をみることは、両者の間に有機的な関連性が予測できる。すなわち、大量の貝類が、集落の定着化と集中化をうながすべき食糧保存の上で、重要な役割を果たしていた可能性を暗示しているのである。
 特に、ここで注目すべき現象がある。馬蹄形貝塚の消滅とともに、縄文集落自体が急激に凋落するが、更にそれと時を同じくして、実は東京湾東岸及び利根川沿岸において、にわかに塩の生産がはじまっているのである。
 この馬蹄形貝塚の消滅と製塩の発生という二つの現象は、それぞれが無関係に、別々に発生し、それが偶然に時期的一致をみたとは考えられない。まして、貝の採集も塩の製造も、ともに海を媒介としなければ成り立たないし、しかも同一地域における同時期の現象である以上、柤互に影響なしには存在しえない現象である。
 そこで、この東京湾という生産基盤を中心にして、東京湾東岸地域の貝塚集落が、どのようにしていかなる食糧を確保してきたかをごく大ざっぱに概観してみる必要があるだろう。