生成期の漁撈活動

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 縄文早期から前期にかけての貝塚集落においては、漁撈用具の出土例はきわめて乏しく、釣針や銛、浮子や錘(おもり)などの発見例は、現在のところほとんど知られていない。ただ、早期において、館山市の稲原貝塚から鹿角製の釣針と骨鏃が出土し(註26)、前期において、市川市の北台貝塚から石錘と軽石製の浮子が発見され、そのほかに骨角製の尖頭器が伴っていた(註27)だけである。
 したがって、魚類の遺存骨についても発見例が乏しく、わずかに松戸市の幸田貝塚からマダイ・ヘダイ・エイなどの出土が報ぜられているにすぎない(註28)。これらの現象をみるかぎり、当時はまだ漁撈活動は活発ではなかったといわざるをえない。
 貝類の採集もまた、当時においては重要な漁撈活動の一つである。特に、この時期はハイガイを主体とし、それにハマグリやマガキを伴う傾向にある。早期と前期とでは、多少その主体となるべき貝の種類は異なる。たとえば、千葉市都町の向の台貝塚においては、早期茅山式を主体とする時期で、総数二三種を検出したが、そのうちハイガイ七四パーセント、マガキ一三パーセント、ハマグリ五パーセント、その他合わせて八パーセントという比率であったという(註29)。前期になると、市川市北台貝塚では、ハマグリを主体とし、それに次いでハイガイが多く、そのほかの主なものとしてアカニシ・マガキ・シオフキなどが伴っていた(註30)という。
 しかし、この生成期(早・前期)における貝塚は、いずれも小規模な点在貝塚であり、それほど活発な採集活動が行われたとも思われない。また、この時期の集落からは、石鏃や石槍などの出土例も多く、また、松戸市の二ツ木貝塚(註31)、市川市の北台貝塚、船橋市の飛の台貝塚(註32)などから、わずかながら、イノシシ・シカ・マガモ・キジなどの鳥獣骨が発見されている。しかし、その狩猟活動もそれほど活発であったとは考えられないのである。
 このように、狩猟、漁撈、採集と、あらゆる生産活動を行っていながらも、そのいずれも零細な資料や小規模な遺跡しか残していないということは、当時は、いずれの生産に重点を置くこともなく、また分業的な専従もしなかった証拠である。これは、集落自体が小規模で、その存続期間が短かく、分布が散在的であるのとあいまって、当時の集落が遊動的もしくは半定住的にならざるをえなかった大きな原因を暗示している。