発展期の漁撈活動

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 中期から後期になると、東京湾東岸地域の各集落からの漁撈用具の出土がにわかに顕著となり、魚骨類の発見が急激に増加する。これは大型の馬蹄形貝塚の出現やその発達にみるように、貝類の採集とともに漁撈活動がきわめて活発になったことを物語っている。
 例えば、漁撈用具の出土例(二―一六表)をみても、そのほとんどが中期から後期にかけての時期に集中している。特に、網漁法に伴う軽石製の浮子や土器片利用の土錘や石錘などは、東京湾東岸のほとんど全域から出土している。なかでも市川市から千葉市にかけては大量に発見される傾向があり、しかも中期における量の方が圧倒的に多い。
2―16表 東京湾東岸地域の漁撈用具出土状況
漁具別網漁具釣漁具刺突漁具
遺跡名(貝塚)浮子土(石)錘釣針モリヤス
野田市中野台
松戸市平賀
貝の花中,後
栗ガ沢
寒風
上本郷中(中)
中峠
子和清水
紙敷中,後
鎌ガ谷町中沢
西山
市川市姥山中,後中,後
堀ノ内
北台(前)
向台
今島田
船橋市金堀台
古作
高根木戸
千葉市長作築地
園生
加曽利中,後中,後
矢作
長谷部
誉田高田
市原市西広中,後
袖ガ浦町山谷
木更津市祇園中,後
永井作
上深作
天羽町富士見台
館山市稲原
鉈切洞窟

〔備考〕欄内の早,前,中,後,晩の文字は,出土する縄文時代の時期をあらわす。(金子浩昌・後藤和民作成 1973)


 釣漁法に伴う釣針は、市川市の姥山貝塚(註33)や千葉市の加曽利貝塚などでは中期から出現しているが、主に後期になって盛んにつくられ、その地域も主に千葉市以南の外洋に近い集落に多くみられる。同じく、刺突用具の銛も、中期では松戸市、市川市、千葉市などの内湾地域の集落からわずかずつ発見されるが、後期になると市原市、木更津市などの湾口に近い地域から多数発見される傾向がある。
 なお、実際に捕獲された魚類骨の出土状態をみると、奥東京湾や現東京湾における内湾浅海の地域では、クロダイやスズキが主体をなし、それに少量ながらボラやコチが伴っている。またフグ類も意外に多く、回遊魚のマグロ・カツオ・ブリなどがとられている。たとえば加曾利南貝塚では、クロダイが圧倒的に多く、スズキがわずかに目だち、コチ・ボラは意外に少ない。それに外洋の魚であるサメ・マカジキ・ヘダイ・マダイなどが加わっていた(註34)という。
 なお、外洋の影響を受ける湾口に近い地域では、マダイ・ヘダイ・ブリ・サメ類などが多く、それに岩礁性の魚であるイシダイ・ブダイ・カンダイ・カワハギなどが加わることがある。
 魚の種類によって、内湾性、外洋性、岩礁性、及び回遊性と、その生息する場所が違っているので、集落の立地している海岸によって漁撈対象が異なってくる。しかも、その魚の性質によって、網や釣りや刺突などの漁法を変えなければならない。千葉市を中心とする内湾地域では、主に網を用いて、クロダイやスズキなどの内湾性の魚を待ち構えて捕える、比較的消極的な方法がとられていた。そのわりに、外洋性や回遊性の魚が加わって種類が豊富なのは、東京湾自体が外洋に向って大きく口を開けているので、ヘダイやマダイなどの外洋の魚が回遊魚であるマグロ・カツオ・ブリ・マイワシなどを追って、内湾の奥まで入り込んでくるからである。
 例えば、犢橋貝塚などでは、内湾の魚ではないのに、アジやサバの骨が大量にとられ、その骨がブロック状になって発見されたという(註35)。また、月の木貝塚や東寺山貝塚からは、クジラの脊椎骨が発見されているが、これも、当時の漁人がわざわざ遠海まで舟を漕ぎ出して捕えたのではなく、クジラの方が嵐などで東京湾内に迷い込み、海岸に打ち上げられたものと思われる(註29)。
 中期から後期にかけての貝類の採集は、小型の点在貝塚においては、多種類の貝が少量ずつ出土し、大型の馬蹄形貝塚では、限定された貝が大量に堆積している傾向がある。例えば、船橋市の金堀台貝塚では、オキアサリがもっとも多く、全体の約三四パーセントを占め、ヤマトシジミ(三〇パーセント)、ハマグリ(一五パーセント)、シオフキ(四パーセント)がそれに次いでいたという(註36)。また、市川市の姥山貝塚では、ハマグリ(八一パーセント)、カキ(五・五パーセント)、シオフキ(五パーセント)、アカニシ(四・七パーセント)、オキシジミ(三・六パーセント)、アカガイ(一・七パーセント)、アサリ(一パーセント)という比率であったという(註37)。
 そのほか、東京湾東岸のほとんどの貝塚集落においては、中期から後期にかけて採集された貝類の中で、ハマグリがもっとも多く、それにキサゴ・シオフキ・アサリなどが次いでいる。このように、必ずキサゴとシオフキが含まれていることに注意すべきである。特に、小粒なキサゴが大量に採集されているという事実は、当時、これを潮干狩りのように一粒ずつ拾ったのではなく、ジョレン状の道具で一括してすくい上げたに違いないのである。すなわち、このような小粒な貝でも一挙に大量に採集するという方法や道具が、すでに存在していたことを念頭におくべきであろう。
 しかし、この時期の狩猟活動については、東京湾東岸の各集落からも、石鏃や分銅形打製石斧などがかなり出土しており、また、イノシシやニホンジカを主体とし、ノウサギ・タヌキ・キジ・ガン・カモ類など、鳥獣骨がおびただしい量で発見されている。すなわち、漁撈活動の発達にあわせて、あくまでも伝統的な生産としての狩猟は、集落が大きくなればなるほど、むしろより活発になっている。
 特に、馬蹄形貝塚の発達と、狩猟・漁撈の活発化が並行しているという事実は、鳥獣骨と魚骨の量から、その食べられた肉の量を再現してみてもわかるように、いかに大型貝塚といっても、その貝の身の量は、食糧全体の中ではさほど大きな比重とはなりえない。やはり、食糧の主体は鳥獣魚類の肉であり、貝の身などは、むしろ副次的、補助的な存在であったことを暗示しているのである。