消滅期の漁撈活動

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 縄文晩期になると、貝塚集落が急激に減少すると同時に、集落以外の貝塚自体も東京湾沿岸からほとんど姿を消してしまう。このように、貝類の採集がほとんど行われなくなるのと期を一にして、漁撈活動全体が零細になる。例えば、漁撈用具の発見がきわめて乏しく、魚類骨の検出もほとんどなくなる。それは貝類が減少したため、遺跡において漁撈用具(骨角器)の遺存の可能性も減少したからだとしても、その漁撈活動の痕跡、すなわち沿岸地域の遺跡自体がきわめて乏しいことからも、漁撈活動の消滅現象は否定できない事実である。
 例えば、流山市の上新宿貝塚(註22)においては、晩期の貝層にはヤマトシジミを主体として、マガキが若干含まれるだけである。また市川市の堀之内貝塚では、オキシジミを主体として、それにアサリが伴うだけである(註37)。いずれにしても、この時期の集落には、後期までのハマグリやアサリ・シオフキ・キサゴなどの純貝層や一度に大量に捨てられた堆積は見出すことはできない。
 このように、貝類や魚類骨の出土が乏しいのにかかわらず、それらの貝塚集落からは、相変わらず、イノシシやニホンジカの骨が多量に検出され、石鏃などの狩猟用具の発見が多い。すなわち、晩期になると、漁撈活動がにわかに消極的になるにもかかわらず、その反面、伝統的な狩猟活動はむしろ積極的になる傾向がある(註35)。
 ところが、この時期において、更に注目すべきことは、従来になかった重要な生産活動が新たにはじめられている。東京湾東岸において、馬蹄形貝塚の消滅、漁撈活動の衰微とともに、貝塚集落が急激に凋落するが、更にそれと期を一にして、縄文後期末から晩期初頭にかけて、にわかに塩の生産がはじまっているのである。この塩は、直接の食糧ではないが、食糧の保存のためには、貴重な存在であり、食糧の確保のために重要な役割を果たすべきものである。