このような観点から、考古学的事実によって、明らかに製塩が行われたと考えられるのは、縄文時代の後期末から晩期初頭にかけての時期で、このころになって、「製塩土器」と思われる一連の特殊な土器と、製塩址と思われる遺構を伴う遺跡がにわかに多数発見されるのである。
つい一〇年ほど前までは、縄文時代に製塩が行われていたことに誰も気がつかなかった。無数に発掘される縄文土器の中から、従来気がつかずにいた「製塩土器」を発見し、いちはやく土器製塩の存在を主張したのは、岡山大学教授の近藤義郎であった。まず、その教授が製塩土器であると判定した根拠は、主に次の点にある(註38)。すなわち、その土器とは、
a 従来の形態分類の中には入らぬ特殊な土器で、従来の煮沸用土器と共伴しながら、全く別の目的に使われたと思われる煮沸用土器である。
b あらゆる装飾的要素も持たぬ、きわめて薄手の無文土器で、しかも徹底的に統一されたタイプの土器である。
c 従来の精製・粗製の土器に比べて、出土量が圧倒的に多く、しかもことごとく小破片である。この種の土器の製作と使用がさかんで、その消耗が激しかったことを示す。
d その使用場所は、持続的な日常生活の場ではなく、その土器の消耗と関係した特定な行動の痕跡である。
e この土器片に、うすい膜状や粒状の固着物があり、これを化学分析したら、炭酸石灰を主成分とするものであった。
f 手にとると、器壁にそって表面が簡単に剥離する。これは海水煮沸以外では生じない現象である。
そのほか、実際の遺跡における出土状態やおびただしい焚火址の存在(製塩址)など、いろいろ検討した結果、他のいかなる用途にも不向きで、どうしても製塩土器としか考えられないというのである。今日、考古学界ではこれを疑う者もなく、各地において活発な調査が進められ、着々とその実証的な成果をあげつつある。そして現在までに、この種の製塩遺跡は、関東地方だけでもすでに五〇カ所ほどにも及んでいる(二―九七図)。
2―97図 関東地方における縄文時代の製塩遺跡分布図
(常総台地研究会作製,1972)