二―九七図のように、関東地方における製塩遺跡は、主に霞ヶ浦沿岸と東京湾内湾地域に密集している。そして、これらのほとんどのものが貝塚を伴う遺跡であり、しかも野田市・東金野井西、流山市・上新宿、市川市・堀之内、千葉市の犢橋・園生・加曽利貝塚など、そのほとんどの遺跡が馬蹄形貝塚を伴う貝塚集落の一角において見出されている点に留意すべきである。すなわち、かつて大型貝塚を残すほど、もっぱら貝の採集に励んでいた集落と同じ場所に、継続して住んでいた人びとによって、新たに製塩がはじめられているのである。
したがって、この製塩の開始と馬蹄形貝塚の消滅との間には、どうしても有機的な関連性を予測せざるを得ないのである。しかも、貝の採集も、海水の煮沸による製塩も海の存在を媒介としなければ成立しないという絶対的な自然条件の共通性を有するかぎり、両者の関係はきわめて密接なものでなければならないはずである。