このように、縄文時代の後期末から晩期初頭において、塩の発見と製塩の開始によって、にわかに減少し、壊滅的な現象をきたした馬蹄形貝塚の存在意義とは、いったいどこにあったのであろうか。
まず加曽利貝塚の場合、一つの台地上に、馬蹄形の大型貝塚と、点在する小型貝塚とが同時に存在している。両者をおのおの別個の集落であるとすることの矛盾は、さきにも指摘したとおりである。また、馬蹄形貝塚の周辺部の居住者が、その日その日の食べかすを、わざわざ馬蹄形貝塚まで捨てにいったとすることも、現に、その住居のすぐ近くに点在貝塚が存在することから不合理である。
同じく、横浜市・南堀貝塚においても、先に述べたとおり、一つの舌状台地上に、平坦部の住居址内に堆積した点在貝塚と、西側斜面に大量の貝がまとめて捨てられたやや大型の貝塚とが、同時に存在している。これを、当時の集落内には、日々の食べかすをあるときは住居の近くに棄て、あるときは西側斜面に棄てなければならない規制があったとするのは、きわめてナンセンスである。おそらく、この西側斜面の貝塚こそ、東京湾東岸では中期以降に発達する馬蹄形貝塚の、いわば発生的・初源的形態であると考えられる。
要するに、点在する小貝塚と馬蹄形や環状の大貝塚とは、本質的にその性格を異にしていたのである。だからこそ、その形態も規模も異なり、同一集落内においても両者が同時に存在しえたのである。果たして、両者の貝塚の性格や意義の相異はどこにあったか、ここでもう一度整理してみよう。