その位置は、住居址群の所在とは直接関係のない特定な場所が選ばれ、同一種類の貝が一度に大量に、しかも集中的に捨てられている大型の堆積。この貝層を時期ごとのブロックとして分析してみると、その堆積の場所と同時期の住居址の位置とはかなり離れている。貝塚内で住居址が発見されるのは、常に貝層下からであり、貝層の下に住むことは不可能である。その貝を捨てた人びとの住居は、貝層の内側からは発見されていない。一度に捨てられた貝の量は、点在貝塚とは比べものにならず、とても小家族が日々に食べた量とは考えられないほど大量である。
また、牛馬も車も存在しなかった当時において、海岸から数キロメートルも舟で引きこみ、集落の末端部までわざわざかつぎ上げている。加曽利貝塚の場合、舟着場と思われる台地先端部から最短距離にして二百~三百メートルほどである。その間に同時期の住居址群や点在貝塚があるのに、なぜそれを通り越して遠くの特定な場所まで運ばねばならなかったか。それは、ある一定の時間的経過を必要とし、特定な地理的条件を必要としたからである。
しかも、貝層部の内側や中間層からは、住居址の炉址よりも広大な特殊な焚火址がおびただしく発見される(註39)。そして、貝層中からは、主に煮沸用土器の破片が多量に出土する。これは日常生活に住居の周辺で使用した土器の破損したものを、わざわざ貝塚まで捨てにきたのではなく、その焚火址の周辺で使用されたものである。
更に、この種の大型貝塚からは、ハマグリと共に必ずシオフキが多量に発見されている。この貝は、水につけておいてもなかなか砂を吐かないので、普通の料理法では食べられない。一旦土器で煮て、殼から身を取り出してから洗わなければならない。
特に重要なことは、製塩の開始とともにこの種の貝塚がにわかに消滅するということは、この貝塚における貝が、それまで塩の役割を果たしていたことを如実に物語っているのである。すなわち、食糧保存の媒介物としての塩の効用を、この貝がちがった形で発揮していたのである。
以上のことから、結論として、この大型貝塚は、貝自体を保存食糧として加工していた場所であると考えられる。すなわち、貝を一旦土器で煮て、その身だけを取り出し、天日に干して「干貝」に加工していたのである。海水が付着した身をなまのままで天日に干すと、太陽の輻射熱と海水中のバクテリアによって腐りやすい。一旦土器で煮ると、貝の身の組織中に含まれる酵素がこわされ、付着していた細菌類は死滅する。しかもタンパク質が凝固して、含有水分が減るので乾燥が早くなる。第一、殻から身を取り出すのに容易になる。現に貝塚の貝殻には、なまのままこじ開けた痕跡がないし、蝶番のついたままのものが多い。
したがって、馬蹄形や環状貝塚の中央部は、日当たりがよく、風通しのよい干場として解析され、その干場を中心に、むらびとたちが共同で干貝の加工作業を行ったので、必然的に貝塚の形状が環状または馬蹄形を呈する結果となったのである。
要するに、まだ塩の存在を知らなかった縄文後期までの人びとにとって、鳥獣や魚の肉を長期にわたって保存することは困難であった。埋め甕や貯蔵穴などが天然の冷蔵庫の役を果たしても、その保存期間は限られていた。そこで、身が小さく乾燥しやすい貝を干貝に加工することによって、保存食糧を確保していたのである。すなわち、大型貝塚は、集落全体の共同作業による干貝の加工場であり、集落の生産にかかわる重要な場所であったと考えられる。
もちろん、この干貝の加工が存在した以上、小魚類や海草類の干物加工の可能性も考えられる。犢橋貝塚におけるアジやサバの骨のブロック状堆積などは、それを雄弁に物語っている。このような干貝や干物の生産によって、当時の人びとは、計画的・恒常的に保存食糧を確保することができ、集落の定着性と集中性を実現しえたのである。ここに、馬蹄形貝塚の出現とともに、縄文集落がようやく定着的・集中的な様相を呈するという画期的な現象が符合する一半の原因が指摘できるのである。
だが、後期末から晩期初頭にかけて、製塩が開始されると、この馬蹄形貝塚も縄文集落自体も急激に消滅してゆくのはなぜであろうか。この問題を解明するためには、集落相互間における交流の問題から、地域における社会的結合関係を追究してゆかなければならない。