東京湾東岸地域に密集する大型の馬蹄形貝塚は、それぞれ干貝や干物の生産集落であったとしても、それらは決して、おのおのの集落内部だけの自給自足ではなかった。これらの集落は、むしろ干貝や干物加工の分業集団として存在し、その余剰生産の製品を他の物資と交換することによって、はじめて長期にわたる定住生活を維持することができたのである。
なぜならば、貝類の豊富であった東京湾沿岸、特に内湾地域においては、逆に、縄文時代の生活や生産になくてはならない石器の素材がほとんど産出しないからである。まだ金属を知らぬ石器時代においては、硬質の石材こそ、まさに絶対不可欠の必需品である。これを貝塚集落の人びとは、遠く山岳地域から求めるよりほかはないのである。