2―98図 加曽利貝塚出土の石器石材の原産地分布図 (埼玉大学・新井重三作成,1973)
例えば、縄文中期から後期に属する石器類の石材の原産地としては、石皿やたたき石や打製石斧などの原料である安山岩は、赤城・榛名山のものであり、浮子に使われている軽石は主に伊豆天城山のものであり、石鏃の原料の黒曜石は、伊豆箱根と長野和田峠のものである。そのほか、秩父長瀞の輝緑岩や緑泥片岩、丹沢山塊の閃緑岩など、主に関東周辺の山地のものが多い。しかし、勾玉の原料・ヒスイは明らかに新潟県姫川・糸魚川上流のものであった(註40)。
なお、そのような硬玉製の装身具は、加曽利貝塚のほかにも、松戸市の上本郷貝塚や市川市の堀之内貝塚など、千葉県下の各遺跡から発見されているが、いずれも新潟産の石材であるといわれている。
これらはいずれも、石材または製品が山岳地域から運ばれたものであり、当然なにものかとの物々交換によって獲得されたものに違いないのである。そこで、山岳地域の産物と交換すべき沿岸地域の産物といえば、やはり、山地には乏しく、かつ塩のなかった当時にもっとも求められていたものは、海産物であり、保存食糧であったろう。すなわち、これらの石材と交換する最適な物資として、干貝の存在価値はかなり高かったと思われる。
このような縄文時代における交易の問題は、現在のところ、まだ明確には把握されていないが、その可能性を物語る事実はいくらでも指摘できる。特に、縄文中期以降、集落が定着的・集中的になればなるほど、集落の形態が画一的・類型的になる反面、地域的な差異や、それぞれの集落内部における様相、特に遺物の出土状態に、それぞれの特色をもちはじめるのである。