例えば、船橋市の高根木戸貝塚(註41)や千葉市の坂月台貝塚などのように、黒曜石の原石もそれを加工したときの剥片も石鏃自体も他の遺跡とは比べものにならないほど大量に出土する集落がある。では、この集落ではもっぱら狩猟を行い、よほど多くの鳥獣骨が出土するかといえば、むしろ骨の発見量は比較的乏しいのである。
それに対して、加曽利貝塚のように、鳥獣骨はきわめて豊富に発見されながら、黒曜石の原石はおろか石鏃の量さえきわめて乏しい遺跡がある。特に石器を加工したときの剥片がほとんど出土しない。これは、同じ貝塚集落の中にも、原料の石材をとり寄せて、石器をもっぱら加工する分業的な集落と、その製品だけを取り寄せて、その石器についてはもっぱら消費する集落とが、同一地域に共存していたことを暗示している。
また、縄文土器についても、従来は、粘土さえあれば誰にでもどこででも造れるから、各集落から出土する土器は、各集落ごとに自給自足でつくられたと考えられてきた(註42)。
ところが、加曽利貝塚博物館における本格的な実験・研究の結果、縄文土器といえども、かなり高度な専門的技術と特定な条件を要し、特定な場所で特定な人間集団でなければ製作できないことが立証された(註43)。
例えば、縄文中期から後期にかけて、東京湾沿岸の貝塚集落に比べると、霞ヶ浦沿岸を中心とする地域から出土する縄文土器の量は、問題にならないほど豊富である。この現象は、後期の加曽利B式の時期になるともっとも顕著になるが、これは、一集落内における必要量をはるかに越えており、当然土器製作の分業集落が存在したことを物語っている。
なお、特殊遺物としては、茨城県の立木貝塚(註44)や椎塚貝塚(註45)などからは、一つの遺跡から数百個にのぼる土偶が発見されたり、佐倉市の吉見台遺跡(註46)などからは、百個以上の耳飾りが出土している。また銚子市の余山貝塚(註47)や船橋市の古作貝塚(註48)などからは、貝輪が大量に発見されている。特に古作貝塚の場合、一個の蓋つきの土器(堀之内式)の中に、オオツタノハやベンケイガイなど、その地域では採集できない珍らしい貝で作られた貝輪が四〇個も大事に秘蔵されていた。
このように、特定な製品がことさらに大量に発見される遺跡が数多く知られているが、それぞれの製品がそれぞれの集落において、ことさらに必要であったのではなく、それぞれの集落が分業的な生産を行っていたことを物語っているのである(二―九九図、二―一七表)。
2―99図 関東地方における特定遺物を多量に出土する遺跡の分布図
(註 図中の数字は2―17表に記載した番号を示す。)
No. | 遺跡名 | 所在地 | 所属時期 | 特定な遺物 |
1 | 立木貝塚 | 茨城県北相馬郡利根町立木 | 後期・晩期 | 土偶 |
2 | 椎塚貝塚 | 茨城県稲敷郡江戸崎町椎塚 | 後 | 土偶 |
3 | 広畑貝塚 | 茨城県稲敷郡桜川村岡飯出 | 後・晩 | 土偶,骨角器(漁具) |
4 | 福田貝塚 | 茨城県稲敷郡江戸崎町福田 | 後 | 土偶 |
5 | 奈良瀬戸遺跡 | 埼玉県大宮市奈良町 | 中・後・晩 | 耳飾 |
6 | 真福寺遺跡 | 埼玉県岩槻市真福寺字谷頭 | 晩 | 耳飾 |
7 | 石神貝塚 | 埼玉県川口市石神 | 後・晩 | 耳飾・貝輪 |
8 | 大倉南貝塚 | 千葉県小見川町石神台大倉南 | 後 | 貝輪 |
9 | 荒海貝塚 | 千葉県成田市荒海字貝塚 | 後・晩 | 貝輪(装身具) |
10 | 余山貝塚 | 千葉県銚子市余山字殼貝塚 | 後・晩 | 貝輪 |
11 | 吉見台遺跡 | 千葉県佐倉市吉見 | 後・晩 | 土偶・貝輪 |
12 | 高根木戸貝塚 | 千葉県船橋市習志野台 | 中 | 石鏃 |
13 | 武勝貝塚 | 千葉県山武郡山武町武勝 | 後 | 石鏃 |
14 | 鉈切洞窟遺跡 | 千葉県館山市鉈切神社洞窟 | 晩 | 石鏃,骨角器 |
15 | 下布田遺跡 | 東京都調布市下布田 | 晩 | 石鏃 |
16 | 称名寺貝塚 | 神奈川県横浜市金沢区金沢町 | 後 | 骨角器(漁具) |
17 | 榎木戸貝塚 | 神奈川県横須賀市浦郷町 | 前・中・後 | 骨角器(漁具) |
18 | 西広貝塚 | 千葉県市原市西広 | 後 | 骨角器(漁具) |
19 | 富士見台貝塚 | 千葉県君津郡天羽町犬吠 | 後 | 骨角器(漁具) |
20 | 姥山貝塚 | 千葉県市川市柏井町1丁目 | 中・後 | 骨角器(漁具) |