三 社会的な結合関係

193 ~ 195 / 452ページ
 東京湾東岸における貝塚集落の一つ一つについて、その具体的内容や性格を的確にとらえながら、各時期の集落間における有機的関連性を総合的に検討してゆくならば、もっと具体的に当時の社会組織や構造が明らかとなるであろう。
 しかし現在のところ、われわれは、縄文中期から後期にかけて、地域ごとや集落ごとに、土器や石器、装身具や特殊製品、あるいは干貝や塩などを分業的に生産し、それぞれ分掌的な機能を有し、それらの物資を相互に物々交換することによって、当時の集落が、かなり強力な結合関係を保っていた可能性を予測し得るのである。
 そこで、後期末から晩期初頭にかけて、土器製塩がはじまると、馬蹄形貝塚がにわかに消滅するのはなぜであろうか。それは、塩の出現によって、干貝そのものの交換価値が低下し、それまで干貝によって結合されていた地域(共同体)の中では、その存在価値が消滅したためだと考えられる。
 すなわち、塩が手に入れば、干貝のように手間ひまをかけて、わずかな量の保存食糧を獲得するよりは、塩を肉や魚に振りかけることによって、はるかに大量の食糧を容易に保存することができるようになった。おそらくは、干貝加工の集落において、大量の貝を煮ているうちに、土器の器壁などに塩の結晶を発見し、それが製塩をはじめるきっかけになったのであろう。だからこそ、保存食糧としての干貝の存在理由は、塩の効用に転換し、かつて干貝を加工していた同じ集落において製塩がはじめられたが、それがかえって貝塚集落の存立の基盤をみずから否定する結果となった。
 特に、塩の生産といっても、もろもろの必要条件があり、かなり専門的な技術を必要とするので、当然、製塩に適した地域が限定されてくる。例えば、製塩に伴う製塩土器のおびただしい消耗は、それに対応しうる製塩土器の大量生産が必要となる。ところが、先にも述べたとおり、土器自体の製作にも特定な条件があり、その地域は限定されてくる。現に、製塩集落の分布をみると、その大半のものが、かねてより縄文土器がもっとも豊富につくられてきた霞ヶ浦を中心とする地域に集中しているのである。
 このようにして、東京湾東岸地域における貝塚集落の中にも、製塩に適・不適の違いや、塩の生産能力の格差が生ずる結果となり、従来、干貝を中心にして保たれてきた相互補助的な結合関係はバランスを失ってしまった。この結合関係の崩壊とともに、「貝塚文化」が消滅し、縄文集落全体が全く新らしい存続の方途や相互補助的な結合関係を求めて、東京湾沿岸地域から急激に姿を消してしまったものと思われる。

(後藤和民)


 【脚註】
  1. 曽谷貝塚 市川市曽谷二丁目築地所在、東西約二百、南北約二五〇メートルの馬蹄形貝塚を伴なう縄文後期の集落。
  2. 戸沢充則「貝塚文化」『市川市史』第一巻、昭和四六年
  3. ヨーロッパでは、従来貝塚のことを、Kjökkenmöddungsとか、Kitchenmiddenとか呼ばれてきたように、わが国の考古学界でも、エドワード・S・モースが大森貝塚を発掘して以来、その所見に基づいて、貝塚はゴミ捨て場であると考えられてきた。
  4. 麻生優「縄文時代後期の集落」『考古学研究』 七巻二号、昭和三五年
  5. 岡本勇「加曽利貝塚の意義」『考古学研究』 一〇巻一号、昭和三八年
  6. これは当時の人々の「立ち去りゆく後にのこされる住居を貝殻で覆いかくすという心情」のあらわれかも知れないという(戸沢充則『市川市史』第一巻、昭和四六年)
  7. 後藤和民「原始集落研究の方法論序説」『駿台史学』二七号、昭和四五年。
  8. 芹沢長介『石器時代の日本』昭和三五年
  9. 戸沢充則「貝塚文化」『市川市史』第一巻、昭和四六年
  10. 松戸市編『松戸市史』上巻、昭和三六年
  11. 市川市編『市川市史』第一巻、昭和四六年
  12. 船橋市編『船橋市史』前篇、昭和三四年
  13. 千葉市編『千葉市誌』、昭和二八年
  14. 伊藤和夫・金子浩昌『千葉県石器時代地名表』昭和三四年
  15. 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』千葉市、昭和二八年
  16. 上福岡貝塚 埼玉県入間郡福岡町上福岡所在。縄文前期の点在貝塚を伴う集落。
  17. 後藤守一「上古時代の住居」『人類学・先史学講座』 一五巻、昭和一五年
  18. 和島誠一「南堀貝塚と原始集落」『横浜市史』第一巻、横浜市、昭和三三年
  19. 幸田貝塚 松戸市幸田所在。縄文前期の点在貝塚を伴う集落。
  20. 八幡一郎「幸田貝塚第三次調査概報」松戸市教育委員会、昭和四八年
  21. 杉原荘介『加曽利貝塚』中央公論美術出版、昭和四一年
  22. 方形住居は切妻式の屋根をもち拡張が可能。円形住居は円錐形の屋根で拡張が困難。拡張は人口増加に起因するが、増加する人口を、増築拡張して一戸の家屋内に収容すべき家族形態から、人口増加がすなわち家屋自体の増加となるべき集落形態へ転換したことを物語っている(註7の後藤論文に詳述)。
  23. 註13の後藤守一論文及び註11の武田論文に詳述。
  24. 昭和三九年の発掘によって、後期堀之内式期の竪穴住居址一二基、晩期安行Ⅲa式の竪穴住居址一基が発見されている(八幡一郎編『貝の花貝塚』松戸市教育委員会、昭和四八年)。
  25. 昭和三四年及び三七年の発掘により、後期堀之内式期の竪穴住居址二基と、加曽利B式期とも思われる竪穴住居址二期が発見されている(『市川市史』一巻、昭和四六年)。
  26. 上川名昭「千葉県流山市上新宿貝塚」『日本考古学年報』19 昭和46年
  27. 八幡一郎編『貝の花貝塚』松戸市教育委員会、昭和四八年
  28. 藤森栄一「縄文中期文化の構成」『考古学研究』三六号、昭和三八年
  29. 川上勇輝「米の圧痕をもつ縄文末期の土器」『熊本史学』 一四号、昭和三三年
  30. 賀川光夫「縄文晩期農耕文化に関する一問題」『考古学雑誌』五二巻四号、昭和四〇年
  31. 江坂輝弥『日本文化の起源』昭和四二年
  32. 江坂輝弥「千葉県館山市那古稲原貝塚」『日本考古学年報』3、昭和三〇年
  33. 西村正衛「千葉県市川市国分旧東練兵場貝塚」『早稲田大学教育学部学術研究』10、昭和三六年
  34. 松戸市編『松戸市史』昭和三六年
  35. 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』千葉市、昭和二八年
  36. 戸沢充則「千葉県市川市北台貝塚」『日本考古学年報』19、昭和四六年
  37. 篠遠喜彦「千葉県東葛飾郡二ツ木第二貝塚」『日本考古学年報』3、昭和三〇年
  38. 杉原荘介「下総飛ノ台貝塚調査概報」『史前学雑誌』四巻三・四号、昭和七年
  39. 市川市編『市川市史』一巻、昭和四六年
  40. 金子浩昌の教示による。
  41. 金子浩昌「貝塚と食糧資源」『日本の考古学』Ⅱ、昭和四〇年
  42. 武田宗久「千葉県船橋市金堀台貝塚」『日本考古学年報』10、昭和三八年
  43. 金子浩昌「石器時代の漁撈活動」『千葉県石器時代遺跡地名表』房総考古学会、昭和三四年
  44. 近藤義郎「縄文時代における土器製塩の研究」『岡山大学法文学部学術紀要』一五号、昭和三七年
  45. 大宮守蔵「千葉県加曽利古山貝塚に就いて」『考古学雑誌』二七巻、昭和一二年
  46. 加曽利貝塚博物館より、埼玉大学・新井重三助教授に研究委託した、その成果による。
  47. 八幡一郎編『高根木戸』船橋市教育委員会、昭和四六年
  48. 山内清男「縄文式文化」『ドルメン』4巻6号、昭和一〇年
  49. 新井司郎『縄文土器の技術』千葉市加曽利貝塚博物館、昭和四八年
  50. 立木貝塚 茨城県北相馬郡利根町立木所在。馬蹄形貝塚を伴う縄文後期の集落。約三百個の土偶が発見されているという。
  51. 椎塚貝塚 茨城県稲敷郡江戸崎町椎塚所在。馬蹄形貝塚を伴なう縄文後期の集落。同県同郡東村の福田貝塚とともに、土偶の多数出土することで、古くから有名な遺跡。
  52. 吉見台遺跡 佐倉市吉見台所在。点在貝塚を伴う縄文中期から後・晩期の集落。昭和四七年から調査中であるが、すでに百個以上の耳飾りと土偶が発見されている。
  53. 余山貝塚 銚子市余山町所在。馬蹄形貝塚を伴う縄文後・晩期の集落。その昔、大野市平の採集だけで貝輪八三一点を数えたという(大野市平「余山貝塚に於ける多量の発見物」『人類学雑誌』二四巻二七四号、明治四二年)。
  54. 古作貝塚 船橋市古作町中山競馬場内所在。馬蹄形貝塚を伴なう縄文後期の集落(八幡一郎「最近発見された貝輪入蓋付土器」『人類学雑誌』四三巻八号。昭和三年)。