1 弥生時代の遺跡の分布

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 七千年にわたった縄文時代が幕を閉じると、それに続く弥生時代の開幕となる。
 この時代に入ると、生産の様式は、縄文時代の狩猟・漁撈・採集から稲作農耕を中心とする生産へと変化し、利器の原材料にも変化を生じ、青銅器、あるいは鉄器の使用が波及して、いわゆる金石併用時代となる。
 このような変化に伴って、土器の製作技法も大きく変化して、いわゆる弥生式土器と呼ばれる一連の土器が使用されるようになってくる(註1)。
 この弥生式土器をこの文化の代表とし、これを指標として研究が進められているため、この時代の文化を弥生文化、時代を弥生時代と呼称している。これは縄文時代の場合と同様である。
 この弥生時代の期間は、縄文時代に比べてはるかに短かく、わずか数百年間にすぎないとされている。おおよそ、西暦紀元前三百年ごろに始まり、紀元後三百年ごろまでとされている。
 このように短期間でありながらも、生産様式の発達は社会の変化を加速度的に進展せしめ、縄文時代の原始共同体的社会から、後続の古墳時代における古代国家社会の成立への過程にあたっており、非常に重要な時代となっている。
 このように、変化のはげしい時代であったために、地域によって、弥生時代の時間的位置には若干のずれを生じてきている。一般に、北九州地方においてもっとも早く弥生時代が始まり、東日本に至るにしたがって少しずつ遅れていると言われている。
 弥生時代は、数百年の間を、およそ二百年ごとに、前・中・後の三期に分けている。
 関東地方では、大体、全国的に見た場合の中期から、弥生時代が始まるとされている。
 千葉市でも、弥生時代前期の遺跡は未だ発見されたことはなく、すべて中・後期の遺跡である。
2―18表 関東地方南部における弥生式土器編年表
中期三ケ木式
須和田式
宮ノ台式
後期久ケ原式
弥生町式
前野町式

(河出書房『日本の考古学』Ⅲ弥生時代5
関東(神沢勇一)より)


 千葉市域における、弥生時代の遺跡の分布は、縄文時代のそれに比べてきわめて少数であり、わずかな土器片を採集した場所をも含めてみても、一六カ所にすぎない。
 これは、弥生時代の時間の長さが全体を含めたとしても数百年であり、ことに千葉市においては、中期以後ということであれば、三~四百年という時間になる。
 この長さは、縄文時代全体、約七千年とは比較にならないほどに短い時間であり、縄文時代の五期のうちの一期について、機械的に算出しても千数百年の長さをもっているのに対し、その半分にも至らない時間である点からもやむを得ないことであるかも知れない。
 しかし、縄文時代研究の場合と同じく、古くより知られていた遺跡が七カ所(註2)であるのに対し、最近の地域開発に伴う発掘調査の実施や、綿密な分布調査の結果が、ここに、その倍以上の遺跡の存在を知らせることになったことは、弥生時代の研究が、著しく遅れていることを示しているであろう。
 これは、縄文時代の項で述べたように、千葉市域における考古学研究が、大規模な縄文時代の貝塚に集中した結果、縄文時代にあっても、包含地の見落しが多数あったことと同じく、同様の包含地しか残していない弥生時代の遺跡を発見し得ないままに今日に至っているということが言えるであろう。
 千葉市域における、弥生時代の遺跡の研究は、昭和十七年三月の杉原荘介らによる坂月町新田山遺跡の調査が最初であろう(註3)。
 戦前における市内での弥生時代の遺跡の調査例はこれのみである。
 戦後の調査の最初は、昭和二十六年で、武田宗久らによって同遺跡の再調査が行われている(註4)。
 次いで、昭和三十一年千葉寺町中の台遺跡から壺形土器が発見され、その後、千葉経済高等学校によって調査されている。
 以後、最近に至るまで、弥生時代の遺跡の調査は全く行われず、その間に、昭和二十六~二十八年にかけて行われた『千葉市誌』編纂の際に、若干の集成と検討が行われているにすぎない。
 そして、市内での弥生時代の遺跡の本格的な調査は、昭和四十六~四十八年にかけて行われ、京葉道路第四期工事路線内にかかる遺跡の事前調査の中で、貝塚町車坂遺跡、星久喜町星久喜遺跡(枇杷首台遺跡)、大森町大森第二遺跡(西の花遺跡)、幕張町二丁目における土地区画整理事業に伴う事前調査によって上の台遺跡が発掘され、古墳時代の住居址にまじって弥生時代の住居址が発見されて、初めて、弥生時代の集落の研究が緒についたというのが現状である。
 しかし、これらの調査が、いずれも、破壊を前提とした調査であるため、後日の比較・再検討の機会が失われたのが非常に惜しまれる。
 今日までに、一応あげられている遺跡は前述のとおり一六カ所を数える(二―一〇〇図)。

2―100図 千葉市内における弥生時代遺跡の分布図

 それらの約半数は、都川の流域に点在しており、他は、花見川流域に二カ所、残る五カ所は、都川から南の東京湾岸の台地上に点々と並んでいる。
 これらの遺跡の中で、椎名谷遺跡が、都川の支流である平山支谷の最奥部の台地上に立地している点が注目される。この位置までは、仁戸名支谷の都川本谷との合流点からも約六キロメートルを数え、廿五里支谷の最奥部にある渡戸北遺跡でも、葭川本谷との合流点まで三キロメートル弱という距離にあるのに対し、格段の谷奥にあるということができる。
 ほかの遺跡は、一遺跡を除いていずれも、かなり開けた低地に臨んだ台地上、もしくは段丘上に立地している。
 沖積低地に立地する遺跡としては、花見川流域の朝日ケ丘町検見川泥炭遺跡があげられるのみで、ほかには、都川流域などにも発見されていない。
 これは、当時にあって沖積低地内での集落立地の条件を満たす微高地が、それ以後の時代、特に近・現代においても早くから市街地として発達したために烟滅してしまったためとも考えられる。
 しかしながら、宮野木谷流域、葭川本谷流域、都川本谷上流域、村田川北岸下流域など、水稲耕作に十分な面積を有する低地の開けた所に、全く遺跡の分布が見られないということは、一層綿密な分布調査が、今後の課題として要求されるであろう。
 これらの遺跡の中で、はっきりと弥生時代中期の遺跡と確認できるのは、坂月町新田山遺跡をはじめとする四遺跡で、他はいずれも後期あるいは時期不明のものであり、遺跡数の上から見れば、千葉市域における弥生文化の発展は後期にあると見られるが、本格的な集落址の研究には至っていない。
 その中で、最近に至って、幕張町上の台遺跡において、前野町式期の住居址の発見のあったことが伝えられている。
 いずれにせよ、千葉市域における弥生時代・弥生文化の本格的な地域研究は未だに始められていないという状態と言ってよく、今後の調査・研究活動が強く要望される。

(宍倉昭一郎)


 【脚註】
  1. 縄文式土器及び土師器とも異質の土器として把えるため、明治十七年に、東京都文京区本郷向が岡弥生町からこの種の土器が発見されたのを機に命名された。
  2. 武田宗久「千葉市附近弥生式時代遺蹟地名表」『千葉市誌』昭和二八年
  3. 杉原荘介「下総新田山遺跡調査概報」『人類学雑誌』五八巻二号 昭和一八年
  4. 武田宗久「原始社会」『千葉市誌』昭和二八年