Ⅰ 新田山遺跡(坂月町字新田山)

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 千葉市最古の弥生時代遺跡である。都川本谷を東へ五キロメートルほどさかのぼった地点で、古山支谷が北へ分かれてゆく。この二つの谷を分ける坂月町の台地の南西端が、わずかに南西へ向って突出して、舌状を呈している。
 遺跡はその基部の東側に立地しており、旧千城第二小学校の敷地に隣接し、背後(北側)に坂月古墳群が展開している。
 遺跡の発見は昭和十六年で、吉田格による。その後、吉田の出征から、本遺跡の研究は杉原荘介に引き継がれ、翌昭和十七年三月に発掘が行われている。
 最初に発見された資料は、壺形土器四個であり、これらの出土状態は、「包含層中に無秩序に埋積されているのでなくて、〓〓層面より幾らか凹所と思われる個所に、一或は二個体埋没しているのであり、この凹所は人為的と思われると同時に、その土器のあり方は明かに意志的に置かれたものと解せられ」て、昭和十七年の発掘の際にも、同様の凹所が数カ所発見されている(註1)。
 一方、このときの発掘では住居址の発見はなく、また、昭和二十六年四月、武田宗久らによって、再度、本遺跡付近の発掘調査が行われたが、住居址の発見はなかった模様で、「本遺跡は集落址でないことを確めた。」とされている(註2)。
 発見されている土器は四例を数え(二―一〇一図)、いずれも壺形土器で「須和田式」とされている。その一例について次のように説明している(二―一〇一図左端の土器)。

2―101図 新田山遺跡出土の土器(弥生中期須和田式)
   (『人類学雑誌』58-2より)

 「壺形土器。口縁部缺失。例品中最大のものである。長壺にて、細頸、肩部は角部を有せず、流れている。文様帯は胴上部と頸部にある。胴上部の文様は重三角形を連ねて器体を繞っている。その空白部には縄文の押捺が認められる。頸部の文様は縄文帯の中程を波状に一線が繞っているのみである。施文はいずれも太い篦にて描かれている。底部は平底にて、粗い編み方の網代の痕を残している。土器の製法は輪積法が用いられている。」
 このような、壺形土器が、前述のような状態で出土することの意義については、はじめはわからなかったようであるが、佐倉市「天神前遺跡」の調査によって、この壺形土器を蔵骨器として使用した土壙墓であることが判明してきた(註3)。
 以上のような点から、本遺跡は墓地遺跡と考えられている。
 となると、ここに墓地を営んだ弥生時代人の集落や生産の場がどこに立地しているかという点が課題として残されてくる。これは、単に「新田山遺跡」にとってのみの問題ではなく、千葉市における弥生文化の発祥を探求する上で非常に重要な問題である。