千葉寺谷は、入るとすぐに二つの支谷に分かれるが、その分岐する中央に東から西に向って伸びてくる台地があり、それを「中の台」といい、その先端に本遺跡が立地する。
本遺跡から発見された壺型土器(口絵第一一・一三図)が千葉経済高校に保管されている。昭和三十一年の発見と伝えられているが、発見時の状況などは明らかでない(註4)。
一方(口絵第一一図)は完形品で全体を知ることができる。胴は球形に近く、頸部は「須和田式」としては若干短く、口縁は外反している。
文様は、縄文の地文の上に、胴の最大径部から上に、ヘラ書きによる平行線文、刺突文列、波状平行線文が交互に施されて口縁部に至っている。高さ三八・六センチメートル。
他方(口絵第一三図)は、口頸部を欠いている。胴部は楕円形に近い形態を有している。文様は縄文の地文の上に、ヘラ書きによって、胴の最大径部には重三角文が施され、胴の上半部は平行線文でうめられている。
以上、見たところにより、先の新田山遺跡例よりは若干時代のさがるものではあろうが、なお須和田式の範疇に含まれるものと考えられる。